悪意なく純真な対応をする/それが過ぎる少女あみ子が周囲から疎外されていく様子を描いた表題作、売り出し中のお笑いタレントと交際中と言い張る七瀬さんを気遣い話を合わせるより若者の同僚たちを描いた「ピクニック」、近所のおばあさんの様子を描いた「チズさん」の3編からなる短編集。
あみ子が小学5年生のときにようやくできた夫と自分の間の子が死産で悲嘆している継母に、プランターに「金魚のおはか」などと並べて「弟の墓」の木札を挿して見せ、それを見た継母が泣き崩れ、以後継母はやる気を失い、兄は不良になるというエピソードをどう考えるべきでしょうか。無邪気さ・純真さが、今では鈍感さ・空気の読めなさを意味し、王様は裸だと指摘した子どもは、かつては大人たちに気づきをもたらしたが今では大人たちに無視され疎外される、そういうことをいいたい作品なのでしょうか。小学生が悪意なく「弟の墓」と書いた木の札を立てたくらいで泣き崩れてそのままうつ状態になるというのも極端だし気弱に過ぎると思えますが、近年は、そういう人が増えているようで、そういうことを認め予期して人に対応すべきことが次第に世の習いとなりつつあるように見えます。作者はそういう風潮に疑問を投げかけているのかというと、あみ子ののりくんへの対応のしつこさ・無神経さ(我慢を重ねていたのりくんがついにキレてあみ子を殴りつけて前歯を折る)、同居している継母が入院したことにも気づかない無関心ぶりなど、あみ子の「純真さ」の行き過ぎぶりが目に付く描写は、あみ子が疎外されるのも当然としているとも読めます。
それと並べられた、見栄を張る同僚を傷つけないように気遣う若者たちが、空気を読めずに真実を突きつけようとする新人をたしなめて取り込んで行く「ピクニック」を合わせ読むと、無邪気さが残酷さを意味し、人を傷つけないように気遣う優しさが求められているように感じられます。必ずしも2つの作品が同じ方向を向いていると読む必要はないかも知れませんが。
今村夏子 ちくま文庫 2014年6月10日発行(単行本は2011年1月)
太宰治賞、三島由紀夫賞受賞作
あみ子が小学5年生のときにようやくできた夫と自分の間の子が死産で悲嘆している継母に、プランターに「金魚のおはか」などと並べて「弟の墓」の木札を挿して見せ、それを見た継母が泣き崩れ、以後継母はやる気を失い、兄は不良になるというエピソードをどう考えるべきでしょうか。無邪気さ・純真さが、今では鈍感さ・空気の読めなさを意味し、王様は裸だと指摘した子どもは、かつては大人たちに気づきをもたらしたが今では大人たちに無視され疎外される、そういうことをいいたい作品なのでしょうか。小学生が悪意なく「弟の墓」と書いた木の札を立てたくらいで泣き崩れてそのままうつ状態になるというのも極端だし気弱に過ぎると思えますが、近年は、そういう人が増えているようで、そういうことを認め予期して人に対応すべきことが次第に世の習いとなりつつあるように見えます。作者はそういう風潮に疑問を投げかけているのかというと、あみ子ののりくんへの対応のしつこさ・無神経さ(我慢を重ねていたのりくんがついにキレてあみ子を殴りつけて前歯を折る)、同居している継母が入院したことにも気づかない無関心ぶりなど、あみ子の「純真さ」の行き過ぎぶりが目に付く描写は、あみ子が疎外されるのも当然としているとも読めます。
それと並べられた、見栄を張る同僚を傷つけないように気遣う若者たちが、空気を読めずに真実を突きつけようとする新人をたしなめて取り込んで行く「ピクニック」を合わせ読むと、無邪気さが残酷さを意味し、人を傷つけないように気遣う優しさが求められているように感じられます。必ずしも2つの作品が同じ方向を向いていると読む必要はないかも知れませんが。
今村夏子 ちくま文庫 2014年6月10日発行(単行本は2011年1月)
太宰治賞、三島由紀夫賞受賞作