伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。今年も目標達成!

真相 イラク報道とBBC

2006-09-20 01:52:27 | ノンフィクション
 イラク戦争問題をめぐるブレア政権との対立の中でBBC会長を退任したグレッグ・ダイクの自伝。
 日本語版のサブタイトルからするとイラク戦争報道をめぐる内部事情が書かれていると期待しますが、400頁を超える分厚い本の中で、イラク戦争報道関係は第8章、第9章の120頁足らず。大部分は著者のイギリステレビ業界での経歴の話。しかも、自伝の例に漏れず著者が書きたいと思うことだけピックアップして書かれているので、話が戻ったり飛んだり、読者には不親切。

 せめてBBCに入る前のことは大幅に削って、BBCの中での愚痴も残していいけどくどいところはもう少し簡素にすれば、半分くらいの厚さの普通の量にできると思うのですが。
 テーマとしては悪くないけど、興味を持って読み続けるには厚すぎると思いました。


原題:GREG DYKE : INSIDE STORY
グレッグ・ダイク 訳:平野次郎
NHK出版 2006年6月30日発行 (原書は2004年)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるしのステップ

2006-09-19 23:20:40 | 人文・社会科学系
 司祭兼心理学者が、痛みを与えた相手を許すことについて書いた本です。
 相手を許さずに恨み続けると、ストレスにさらされ免疫系が自分の体を攻撃するようになってさまざまな病気になる、過去に縛られ、痛みをいつまでも思い出し、復讐の連鎖を生むなどと脅かした挙げ句、著者の提示する許しに至るのに必要な12のステップのうち10くらいからは神の助けによらなければできない(266頁、277頁)というのですから、結局は宗教者による布教書になっています。

 しかし、この本が論じている、許すことは(被害を)忘れることではない、許すことは元の状態に戻ること(仲直りをすること)ではない、許すことは自分の権利を放棄することでも相手の責任を追及しないことでもない、許すことは相手への優越感を示すことでもない、許しは命令されたり義務的にするものではないという指摘は、いろいろ考えさせられます。
 そして第一のステップで復讐しないと誓うとともにこれ以上攻撃させないことが大切と説くことも実践的です。自分が傷ついていることを自覚し、心の痛みを誰かと分かち合うことが重要との指摘も大切です。犯罪被害者の権利の議論をしていて日本では犯罪被害者に付き添うボランティアのことが抜け落ちがちです。自分が失ったものを自覚し、自分の怒りを自覚し、そして自分自身を許すことが、相手を許す前提という指摘も的を射ていると思います。そして相手を理解し(それは免責することではないし、無理してステップを進むことはないと著者は強調しています)、と進んでいきますが、この後は相当キリスト教的な色彩が強くなっていきます。著者が、無理して許すこと必要はない、許すことで自分が得る(成長する)ことが大切としていることの方をかみしめた方がよさそうです。

 宗教的な色彩が強い本ですが、1つの人生論として読むと、考えさせられるところが多いと思います。


原題:Comment Pardonner?
ジャン・モンブルケット 訳:浅岡夢二
PHP研究所 2006年8月9日発行 (原書は2001年)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彼女の命日

2006-09-16 07:55:08 | 小説
 帰宅途中の路上で刺し殺された女性が、毎年命日の度に山手線で寝込んでしまった女性の体に乗り移って1日だけ蘇り、その眼から家族(母と妹、恋人)のその後を見続けるお話。
 恨み、それも犯人だけじゃなくて妹にも恨みを残して死んだ主人公が、1周忌には、その妹とできちゃった結婚をしようとする自分の元恋人の様子を知り愕然とし、恨みを募らせます。
 しかし、毎回他人の体を使っているうちに、いろいろな人の人生を知り、時の経過や家族の変化に次第にあきらめというか容認に変わっていく、というような流れになります。

 他人の体を使うことで少し変わった視点が得られ、他人を体を使うことでさまざまなトラブルに巻き込まれと、よかれ悪しかれ、霊が毎年1日だけ他人の体を使って蘇るというアイディアに支えられた小説です。そのアイディアとコミカルな部分が気に入ればいいでしょうし、そのあたりに振り回されてバタバタしてちょっと味わいに欠けるかなと感じればいまいちだなとなるでしょうね。


新津きよみ 角川春樹事務所 2006年9月8日発行

9月17日に産経新聞が書評というか紹介を書いていますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憂鬱なハスビーン

2006-09-15 19:29:01 | 小説
 大商社の取締役の息子の弁護士と結婚して結婚退職し広いマンションの部屋でリッチな暮らしをしながら、失業手当を権利としてもらうためにハローワークに通う30歳近いの女性のお話。

 はっきり言って、この主人公が、まわりの善意の人達に、内心で突っかかり毒づき続ける姿に、私はずっと違和感・不快感を持ち続けました。
 自分も家事を手抜きしているのに、実母の、それも歯科衛生士として働き続けて働かない父親も含めてめんどうを見続けて来た実母への見下しぶり。すごく性格がよくてかなりのわがままにも怒らずほぼ言いなりになっている夫(そういう弁護士って、仕事柄、結構目に浮かびます)への言いたい放題。年末風邪を引いて帰ってきてソファーに倒れ込んだ夫に「明日からずっと寝込まれてしまっては、せっかくの休暇が台無しだ。なんて間が悪いんだろうと思った。」(102~103頁)とか。

 この女性、小学校から進学塾に入りトップを走り続けて東大に入りそのゼミの同窓生と結婚したわけですが、後半で就職後対人的な能力の不足で仕事がうまくいかず次第に干されて行ったことが明らかにされます。
 題名の「ハスビーン」はHas been。「かつては何者かだったヤツ。そして、もう終わってしまったヤツ」(42頁)からだそうです。まあ「なれの果て」ってやつですね。
 最後にその受験予備校の崩壊から主人公は何か吹っ切れて未来を見つめる予感で終わっています。
 でも、後半でそういう展開になっても、受験秀才でまわりのこと考えられない人間がコミュニケーション不足で落後していくというだけでこの主人公に同情する気にはなれませんでした。私には、どうもこの主人公には素直に幸せを願う気になれない。ただ最後までいやなヤツだなあと思うだけで、爽快感が得られませんでした。

 純文学系の受賞作(私は群像新人賞というと中沢けいの「海を感じるとき」を思い出す世代なんですが・・・)だし、タイトルでも「憂鬱な」と予告してるんだし、娯楽と期待して読むのが間違った態度だったんでしょうけど。


朝比奈あすか 講談社 2006年8月28日発行
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さよならを告げた夜

2006-09-13 20:38:01 | 小説
 私立探偵が死体で見つかり妻と5歳の娘が行方不明という事件の真相解明を被害者の父親から依頼された私立探偵リンカーン・ペリーが、事件を追い、街の有力者やロシア系マフィアと追いつ追われつ・・・というようなミステリーです。
 主人公と相棒、知人の新聞記者の人物造形と台詞回し、ストーリー運びの巧みさはかなりいい線行っています。
 法廷シーンもなく、弁護士が(殴られ役でしか)出てこないので、リーガル・ミステリーとは呼べませんが、そこを無視して評価すると、社会的な問題提起がなくカット割りがないグリシャムというか、プロットがややばたつくマルティニという感じです。
 これが大学在学中の21歳が書いたデビュー作というのはビックリです。アメリカでは既にシリーズ第2作が発売されているそうで、期待の新人です。

 グリシャムが、アメリカでは次々と新作を発表しているのになぜか日本語訳がぱったり止まっていて(アカデミー出版の超訳で「裏稼業」と「召喚状」が出た後リーガル・ミステリーはぱったり。私は白石訳のグリシャムの新作が読みたい!)、リーガル・ミステリーの新作に飢えている日本のリーガル・ミステリーファンには、一読の価値ありじゃないでしょうか。


原題:Tonight I Said Goodbye
マイクル・コリータ 訳:越前敏弥
早川書房 2006年8月15日発行 (原書は2004年)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハピネス

2006-09-12 21:54:07 | 小説
 心臓病のためあと1週間の命と告知された高3の少女が、好きなロリータファッションブランドの購入と、恋人とのセックスと、好きなカレー三昧の生活を決意し、そうする1週間を恋人の高3少年の立場から書いた小説。
 少女の両親は金持ちで理解があって短い命ならと少女の希望をすべて受け入れて何をやっても文句を言わないし、少年の両親は子ども1人残してオーストラリア住まいと、2人の行動には全く障害がない、とても都合のいい設定。実際、2人にとって困ったことは、少女の病気が進行し、1日1~2回発作が起きること以外には(タクシーが渋滞に巻き込まれるくらいしか)起こりません。ひたすらブランドショップで買い物をし、カレーを食べセックスし続ける日々が、時々発作が入り死を間近にしていることで正当化されながら書かれていきます。そして1週間が過ぎて予定通り少女が死に、少女も少年も、自分はこんなに愛する人と巡り会えてこんなに愛することができてウルトラ・ラッキーだったと評価します。

 短い命と告知されたとき、人はその後どういう生き方を選択するか。数多くの文学・ノンフィクションで取り扱われてきたテーマですが、多くの場合、結局はこれまで通りの人生を地道に続けるというものが多かったと思います。これほどストレートにやりたい放題を選択するものは珍しいでしょう(やりたい放題といってもロリータファッションやカレーというのがかわいいというか小粒ですが)。作者もちょっと引っかかったのか少年の夢の中で世界の終わりが知らされても日常通り生活を続ける人々を出しています(118~119頁)が、1シーン出しただけでそれについて深められたり追求されることはありません。
 人間は死ぬ前の1週間幸せならそれで幸せなのか。そして、この小説は死ぬ少女ではなく少年の立場から書かれていて、その立場で読むと、あんまり都合よすぎないか。文体への違和感も含め、旧世代としては最後まで違和感を感じてしまいました。


嶽本野ばら 小学館 2006年8月10日発行

産経新聞が9月18日に書評を掲載しました。「お涙ちょうだいものでは決してない。それでも、2人のけなげさにはつい涙してしまう。」だそうです。うーん、私もこんな純真な読み方ができるといいんですが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インドの時代

2006-09-11 20:45:50 | ノンフィクション
 最近のインドについて紹介した本です。
 「悠久の大地」とか「貧しくとも目の輝きを持った人々」というパターン化された紹介への反発を、著者が強く持っていて、書かれている内容は、富裕層・中間層のアメリカナイズされた生活と、その反省を含んだ心の豊かさ願望と癒しを求める人々に忍び寄るファッショナブルなヒンドゥーナショナリズム、新興宗教・カルトも含めた宗教事情と最後に最近の政治・宗教の動きに限定されています。リッチな中間層のお友達に取材して書きましたって感じの部分が多いです。
 なんか、バブル期とそれ以降の日本と通じるような話が多くて、インドも日本とあんまり変わらないのね、という読後感が著者の狙いなんでしょう。
 でも、インドの大部分を占める貧困層をほぼ視野の外においた紹介を読んで、これが現代のインドかあ、なんて思えるほど素直な読者じゃないもんで。新興宗教も含めたヒンドゥー教系の動きの紹介は興味深く読みましたが、後はインドにもそういう人達もいるのね(まあ、日本もそうだけど)というところですね。


中島岳志 新潮社 2006年7月25日発行

朝日新聞が9月24日に書評掲載。「激変を遂げつつあるインドの現状を知るには、格好の一冊と言ってよい。」ですって。ふ~~~ん。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海賊ジョリーの冒険2 海上都市エレニウム

2006-09-10 10:01:30 | 物語・ファンタジー・SF
 生まれながらに海面上を歩行できる超能力を持つ海賊の少女ジョリーが、育ての親の海賊をめぐる陰謀、暗黒の海・大渦潮から派遣される怪物たちの襲撃に巻き込まれ、同じ能力を持つ少年ムンクとともに冒険するファンタジーの第2巻。
 第2巻ではジョリーたちが、昔、大渦潮を封じ込め監視のために設けられた海上都市エレニウムにたどり着き、そこで「原初の父」の指導で新たに魔法や海中での遊泳・歩行を訓練して大渦潮との戦いに備えますが、ジョリーはムンクの変貌への違和感や人々の期待の重圧等から疑問を持ちます。育ての親の海賊の問題の展開や「水の機織り女」の「邪悪とは何か」との問いかけや原初の父らの正体をめぐり、混沌として来つつジョリーが大渦潮との戦いに向けて気持ちを整理したところで3巻に続くとなります。

 ファンタジーとして言うと、敵が「暗黒の海」とか「大渦潮」とかイメージしにくいのがちょっと難点。2巻に入り、ジョリー、キャプテンウォーカー、ソールダッドら荒くれ者(ジョリーとソールダッドは女性)の海賊キャラクターがちょっとおとなしめになるのも残念な感じがします。どちらかというと2巻は謎を深めるところで、3巻で大展開があるのでしょうけど。

 原書では2003年~2004年に3巻シリーズが発売済のものですから、日本語版を売り出すのに1巻を2005年12月に出して2巻が2006年8月発売、3巻の刊行時期未定というのは、読者としては不満があります。原書で完結してから翻訳するのなら同時発売か1~2ヵ月で次が出せるように準備してから発売してほしいと思います。


原題:Die Muschelmagier
カイ・マイヤー 訳:遠山明子
あすなろ書房 2006年8月25日発行 (原書は2004年)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オシムの言葉

2006-09-09 20:18:54 | ノンフィクション
 ユーゴスラビアサッカーウォッチャーの手によるオシム監督のこれまでの紹介。
 今やベストセラーで、私もオシム監督がジーコ監督の後任に名前が出てすぐに図書館に予約を入れたんですが、2ヵ月半待ってようやく来ました。

 タイトルから感じるような「オシム語録」的な部分は少なく、選手時代、ユーゴスラビアのクラブチーム・代表チームの監督時代、ギリシャ(パナシナイコス)、オーストリア(シュトルム・グラーツ)での監督時代、そしてジェフの監督としての活躍を綴っています。
 サラエボ生まれのオシム監督が、ユーゴスラビアの代表チーム監督として優れた力量を発揮し確固たる姿勢をとりながら、民族対立・独立の動き・内戦に巻き込まれ翻弄されていく様子、妻がボスニア=ヘルツェゴビナ紛争のサラエボ包囲戦のさなかのサラエボにいたため2年半も会えない中でサラエボを包囲している側の民族のクラブチームを率いる葛藤は、サッカーものというレベルを超えて読み応えがあります。この本の本領はむしろそのあたりにあるように思えます。
 そういう経験を超えてきたオシム監督の言葉、姿勢と思えば、なおさら含蓄があり、重く感じてしまいます。「言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。(中略)新聞記者は戦争を始めることができる。意図を持てば世の中を危険な方向に導けるのだから。ユーゴの戦争だってそこから始まった部分がある。」(38頁)なんて重すぎる。

 純然たるサッカーファンの読み物としていえば、オシム監督が選手時代、「ハンカチ1枚分のスペースがあれば3人に囲まれても自在にキープできる」程のドリブルの名手でボールを持ちすぎる、球を離さないと評価されていたという下り(46頁)が一番興味深いかも。それをオシム監督にぶつけて「確かに自分が監督になったら絶対ああいう選手は使わない(笑)。実際に今まで使っていない。やはり選手と監督というのは別のものだ。」(47頁)と答えさせているところが一番笑えますね。


木村元彦 集英社インターナショナル 2005年12月10日発行
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミシェル・フーコー

2006-09-08 23:19:20 | 人文・社会科学系
 フランス現代哲学に大きな足跡を残したミシェル・フーコーについてのフェミニストによる文学研究者向けの入門書。
 著者の立場はフーコーを祭り上げることなく、偶像破壊的・挑戦的・どこまでも懐疑的な性格のフーコーがあらゆる立場から利用しうることに注意しつつ、フーコーの矛盾や男性中心主義的側面にも光を当てつつ解説するというもの。
 確かに権力を国家・市民間の垂直関係のみならずあらゆる関係の中に見いだすフーコーの権力観は、反権力闘争をやりにくくする面も、また国家権力を過大視しないことは闘争を容易にする面もあるでしょう。常に新しい思考方法を求める姿勢は、オルタナティブを志向する非主流派を勇気づける面も、常に自身をも疑い続けるべきことは運動に確固たる自信を持てなくする面もあるでしょう。著者はそういうことを述べているわけではありませんが、紹介されているフーコーの姿勢からは、私はそういうものを感じます。読み方に間違いがあるかも知れませんが。しかし、それでもあらゆることに疑問を呈し続けるという姿勢は、仕事柄かも知れませんが、私には魅力的に思えます。

 いわゆるニューアカデミーブームの時期に学生・司法修習生を過ごしたこともあり、ミシェル・フーコーの名前はどこか頭に残っていて(でもまともに読んだことはなくて)手に取りましたが、現代哲学系の本は、慣れないと言葉からして取っつきにくい。言説とか言表とかもう少し平易な訳はできなのかと思います。まあ、これから関係する本を読むように勧める立場からは他の本がそういう専門用語的な訳をしている以上そうするしかないのかも知れませんが。でもfieldを「領野」と訳す必要はないと思いますけど・・・。
 巻末の訳者あとがきでは、訳者が著者をフーコーの主要著作以外の文献を反映してないとか近年のフーコーをめぐる議論を反映してないとか「勉強不足」と言わんばかりの指摘をしているのはビックリ(ダメな本だと思うなら訳さなきゃいいのにとも思いましたが)。


原題:Michel Foucault
サラ・ミルズ 訳:酒井隆史
青土社(シリーズ現代思想ガイドブック)
2006年8月20日発行 (原書は2003年)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする