1990年代に入ると再び花、樹木などのモチーフが大きくなる。
ここに挙げた「夜中の出現No2」(1992)をはじめとした「夜中の出現」シリーズについて画家は「意識が眠りに場所を譲ろうとして境目のない薄膜の球体に融けたとき、これまで点滅を繰り返していた輝点が速度をゆるめ、瞼を閉じたままなおも見詰めていると、それは一枚のぼんやりした不定形となってあるいは大輪の青白い花と見え、あるいは地図にものらぬ無人島ともなって網膜に浮んでくるのだった。冬の海へ夜半の漂流。」と語っている。
昨日紹介した1962年の「白壁の下で」の白い塊が直接的に性的なシンボルとして白い塊が表現されていたが、この時期にこの白い塊は性から生命のシンボルへと昇華しているように思える。そして色彩は抑えられ、金箔による時間の暗喩、画面下半分の白は生命体の存在形態の多様性や活発な運動をを象徴しているように思えるのは、私の強引な解釈であろうか。上半分の白い塊は1990年代の前半の作品に執拗に描かれる。
同時期に画家の絵にはアーチや同心円の形が出現する。画家はロマネスク建築を見て、「アーチの力学はこれを突き詰めると円と中心との関係を原型としたもうひとつの時空間の表象ともいえよう。地中海文化の水平・垂直型思考の文化に対して、この円-中心表象は内陸ケルト森林文化の動的思考といえよう。西洋文化がもつこの二元性の発見がとりもなおさず僕の西洋の発見であった。」と述べている。
この作品は「ヘリペリドスの園」(1995)である。中央の金箔を背景とした赤いアーチが世界の表象としての西洋の根源的な姿、と思える。幾何学的な直線と円で構成されるところを見ると西洋的な合理性の象徴とも見える。。左右のまばゆく輝く黄色は生命の表象としての花であるが、これは非幾何学的な描き方である。この花は図録では東洋の象徴のようにも受け取る表現をしている。図録では「西洋と東洋双方の思想から得た世界観」を表している、ということである。
確かに他の絵ではこの輝く花の絵には、日本の家紋に似た円形の紋様が繰り返し描かれており、図録の解説も違うとは私も断定できないが、私には西洋と東洋という二元論的な括り方で理解してしまうことには躊躇がある。日本というアジアの果で人間の形成時期を送り、戦争を経て西欧という文化中心と思われる場所で芸術活動を展開した画家が、独自に作り上げた世界、と理解すればいいのではないだろうか。
この花の溢れるような光と色彩は、しかし赤を主体とした官能的な1960年代の性・生命の表象ではなくなっている。色の対比や構成上も中心のアーチに限定されている。この時期の花には黄と緑が多用されている。
2009年88歳で亡くなる画家の最晩年の「暗い湖」(2005)は再び「峨山」のシリーズのような山が出現している。今回の展示ではこの作品が最晩年の作である。華やかな溢れるような色彩の花は姿を消し、生命力を謳歌するような樹木もなく、活発な噴火活動を示す激しい噴気や溶岩もない。静かに眠る山と岩に挟まれた湖、そしてと雲である。画家はどのような心境であったのだろうか。興味は尽きない。
画家は、激しい山や岩のような非生命的な、しかし地から溢れるようなエネルギーを表現した時期、樹木の生命観たっぷりの様を描いた時期、自ら作り上げた故郷の自然のような「峨山」の時期と、繰り返しながら螺旋的に作品を変化・進化させてきている。そういった意味では躍動感あふれる画業であり、最後までエネルギッシュな創作態度に目を見張った。
さて、最後に私はどうしても葉山館でみた宮崎進の画業、生き方と対比してしまう。両者ともに1945年を20代前半という若さで体験している。
そこから進路は分かれる。宮崎進はシベリア抑留という過酷な体験を経て、かろうじて日本へ戻り画業を始める。宮崎進は日本に戻っても、日本という風土の中での落ち着き先の喪失を体験していると私は考えている。北国の地に根をはったような農・漁の生産に従事する人々への共感もありながら、旅芸人への寄り添いをとおして都市民としての放浪の生活に足を踏み入れる。そしてそこが宮崎進の生活の原点となる。その原点からシベリアという体験に執拗にこだわり続けている。
一方田淵安一は、戦後は絵画理論から画業にはいり、宮崎進が画壇に登場する頃にフランスにわたり生涯を通じて西洋という文化の中で画業を全うする。そこでは日本-西洋という枠の中で、新しい自らの着地すべき、依拠すべき「故郷」を創出しようとしたと思われる。田淵安一にとっては戦前・戦中・戦後を通じて、日本という枠組みはすでに西洋化された都市の上層部の生活であったと思われる。遅れたアジアの東の果ての封建遺制の濃い風土は否定すべき存在であったか、経験のない世界に近かったのではないか。ここに田淵安一ならではの世界があるようだ。
彼は戦後の美術界が「占領下の日本での社会主義的傾向のつよい具象作品を離れ」ようとフランス留学を決意したようである。「戦前の禁書であったフロイト、ユングらの深層心理に新しい非具象の道を探ろう」としたと画家は述べている。
結局どちらの画家も、戦後の出発は日本という出生の地では異邦人のような存在として出発している。戦争というもっとも「国家」の論理のもとに、そして「郷土の誇り」のように徴兵されたものが、敗戦を迎えて自分の属していた社会に戻るに戻れない。あるいは戻ることに大きなエネルギーを費やし、違和感を増幅させてしまう現実が横たわる。戦後の社会が彼らに課した代償は大きいようである。
戦争による傷ということであれば、宮崎進の方がシベリア抑留という極限状況で人間の生と死に隣り合わせ、直に体験した分だけ、敗戦後の日本社会への着地には大きな心理的な抵抗があったと推察される。田淵安一は学徒動員で本土の基地内で航空写真の判読に従事していたということの体験に比べれば。
しかし戦後生まれの私たちから見ればその差はわからない。本土での勤務であれ、死が目の前にぶら下がっていることには違いがあるわけではなく、体験の深化・内在化の度合いは外部の者が、あるいは未体験の我々が判断できるものではない。
しかし私ならば、戦後の歩みについてはどの道を選択したであろうか。まず間違いなく、宮崎進の道を間違いなく追っていたと思う。中層の都市民としての私の出自からすると、国外だろうが国内だろうが徴兵・徴用されていたとしたら、またそのことによって生活基盤が破壊されていたとしても、帰るべきところはない。農業や漁業や商業・職人と云った定着の生業はこなすことができないし、多分そこへのエネルギーは持ち合わせがなかったと思われる。
学生を卒業する頃、就職先が無く、どうしようもなく切羽詰まっていた時やはり、都市から都市への放浪の世界に足が向きそうになったこともある。「根無し草」とも言われた世界の磁力に吸い寄せられるようになったことがある。たまたまそのような事態にはならず、中層の都市生活者・サラリーマンとしての生活に入ったが、あくまでも偶然出会ったと思う。
もしも宮崎進が、放浪の民の中に身を投ずることなく、北国の底辺の職業人・職人・商人としての生活に飛び込めば、また違った画業だったかもしれない。あるいは画業は断念したかもしれない。シベリア抑留という過酷な体験は生活の中で風化し、解体していたかもしれない。
逆に田淵安一がもしシベリヤ抑留などの体験を経ていたら、という仮定はナンセンスかもしれないが、面白い問いである。どのような思想の原点、帰るべき「故郷」を創出していただろうか。興味はつきない。