Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

天満敦子「望郷のバラード」

2014年08月12日 21時21分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日取り上げた諏訪内晶子と同じバイオリン演奏、しかも日本のバイオリニストで、それも同じ銘器ストラディバリウスを携えていてこんなに曲の表情、音の質が違うのか、というのが実感できるのが今回取り上げる天満敦子のバイオリン演奏である。
 演奏家個々人、まったく違う家庭環境で育ち、研鑽を重ねて、指向もそれぞれ違うのだが、先に取り上げた諏訪内晶子はどちらかというと洗練されたスタイルとでも云ったらいいのだろうか。いわゆるクラシック音楽の世界の先端の表現を若いうちに獲得した弾き手であると思う。
 私は二人は同じ曲を弾いても、まったく違って聞こえる。バイオリンという楽器は、宮廷の中で奏でられて洗練され、高度に発展してきた和声・旋律・型式でいかんなくその美しさを発揮する。しかし同時に、原初的で土俗的で生活のエネルギー溢れる音・旋律・様式を色濃く奏でることもできる。
 私は、演奏者の本意ではないかもしれないので申し訳ないと思いつつ、天満敦子の演奏する曲は後者の方が似合う気がする。またその音は後者の曲に似つかわしいと思っている。
 たとえばブラームスがハンガリー舞曲を作ってもそれはバッハからベートーベン等に至る音楽史の中で作り上げられた楽曲の響きの中に位置付けられる。それは世界性を獲得した精緻な理論と実演に基づく曲である。
 それがドボルザークやヤナーチェクになると土俗的な色彩が色濃く出される。それでもそれはクラシック音楽という世界性を獲得する指向を持った曲の中に位置づけられる。
 私は天満敦子のバイオリンの音にその思考とは逆の下降意識というか、土俗的な指向性をもった音の広がりを聴きとってしまう。民族楽器・民族芸能という地点まで下降するとそれはなかなか聞き取ったり感じ取ったりすることは困難であるが、バイオリンという楽器がそのような楽器群や音楽群から受け継いだ当初の音を、聞かせてもらっているような気分になる。
 これはおそらく聴く側の勝手な思い入れの世界であると思うが、そんな気分にさせてくれる天満敦子の音であり、弾き方であると思う。
 あるいは次のように言い換えたらいいのかもしれない。土俗性の匂いの湧きたつ曲にはそのような奏法で弾きこなす技量をそなえている、というように。
 現代日本の作曲家の曲も精力的に弾きこなしている姿からみても、そのような言い方の方が正しいのかもしれない。
 「望郷のバラード」は、悪名高きチャウシェスク時代のルーマニアからの亡命者にまつわるエピソードがあり、それは解説に詳しく記載されている。天満敦子ならではの曲である。
 ここにおさめられたコレルリ、ヘンデル、ベートーベン、ブラームス、サラサーテといった作曲家の有名な曲も、この「望郷のバラード」にたどり着くための前座のような役割かもしれない。ヘンデルのバイオリンソナタ第4番も、スラブ的な曲に聞こえてしまう、といったらとても失礼に当たるかもしれないが‥。

 ただしこの「愛国的」という言葉については、私は「日本」という国のあり様と単純にダブらせて理解してほしくない。「国家」そのもののあり様、捉え方が基本的に違うように思う。これはなかなか納得できるようには展開できないが、いつかは自分なりに述べたいと思っている。

         

ハイドン「チェロ協奏曲第1番、第2番」

2014年08月12日 16時18分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 ハイドンの作曲と現在云われているのはこの第1番と第2番である。第1番は1961年に発見されたものである。古くから知られていた第2番も自筆譜は1954年に発見されたばかりである。第2番は、特に有名である。
どの曲も美しい旋律が聴きどころだが、殊に第2番の第2楽章のチェロと弦楽器による美しい旋律とアンサンブルは好みの人が多いと思われる。

 独奏チェロは1945年生れのイギリスのジャクリーヌ・デュ・プレ。天才少女と云われ16歳の1961年デビュー。この第1番を録音した1967年に指揮者のバレンボイムと結婚している。結婚直前の二人の演奏として有名であったらしい。
 しかし彼女は1971年以降、硬化症を発症し演奏家としての活動を断念し指導者をめざすものの1987年42歳で亡くなっている。

 はじめこの演奏を聴いた時、アナログ録音のためだとは思うのだが、とても乾いた音に聞こえて馴染めなかった。音にみずみずしさや厚みが無いと思った。今でもあまり馴染めない。しかし彼女が生涯使ったとされる楽器は、ストラディバリウスの銘器で “ダヴィドフ”という名がついているという。直接にその演奏を聴いてみたかったと思う。


「ヨコハマトリエンナーレ2014」(3)

2014年08月12日 08時58分13秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 このヨコハマトリエンナーレ2014を見て、全体の感想並びに現代アートに対していつも私が抱く疑問を再度述べてみる。

 このトリエンナーレが現代芸術全体の動向を教えてくれているわけではないと思う。また、世界の現代アートの先端を見通しているわけではないと思う。しかしかなり広範囲の目配りはしているようには思えた。森村泰昌氏個人の力量なのか、組織委員会の比重が強いのか、私などにはわからないが、横浜美術館の展示を見る限り広範囲に作品に接することができたと感じた。

 一方で「社会に対するメッセージ性の強い作品、作者が並んでいる」ことは確かだ。アートが「美とはこういうものだ」という社会的規範から自由になり、そのことで現代アートの苦闘が始まったと云われる。
 制作者の美意識や思想や、与えられたインパクトに対する印象や、観念上に起きる摩擦などを造形するという行為は、個別化されればされるほど流通も極私的となる。共感の範囲はより狭くなる。作品が言語による解説抜きになかなか伝わらないということが必然的に生じてくる、というのが現代アートの姿でもある。

 出来上がった造形作品に対する制作者の思いの表明が重要になってくる。鑑賞者に対するメッセージ性がより高くなる。宗教や政治に対するメッセージ性ということが近代まではいろいろ議論されてきたが、現代は作品そのものが持たざるを得ないメッセージ性というものが前面に出てくるのではないか。
 しかし私はこのメッセージ性というものに対して疑問を持っている。かといって現代アートの共感の範囲は狭まっているし、必然性は高まっているということは理解している。

 この私の持つ疑問に対する回答、突破口は何なのであろう。現代アートと云われるものを前にすると私はいつもこの疑問にぶつかる。


   

 一方で中平卓馬氏の作品のように作品自体として語りかけてくるものもある。さらにメッセージ性をもともと拒否しているような三嶋りつ恵氏のガラス器やギムホンソック氏の「8つの息」(2014)のような存在自体の美を備えてるものもある。これらの作家・作品に現代アートの突破力が存在しているように思うのは、早すぎる結論でしかなく、僭越なのだろうか。