昨日取り上げた諏訪内晶子と同じバイオリン演奏、しかも日本のバイオリニストで、それも同じ銘器ストラディバリウスを携えていてこんなに曲の表情、音の質が違うのか、というのが実感できるのが今回取り上げる天満敦子のバイオリン演奏である。
演奏家個々人、まったく違う家庭環境で育ち、研鑽を重ねて、指向もそれぞれ違うのだが、先に取り上げた諏訪内晶子はどちらかというと洗練されたスタイルとでも云ったらいいのだろうか。いわゆるクラシック音楽の世界の先端の表現を若いうちに獲得した弾き手であると思う。
私は二人は同じ曲を弾いても、まったく違って聞こえる。バイオリンという楽器は、宮廷の中で奏でられて洗練され、高度に発展してきた和声・旋律・型式でいかんなくその美しさを発揮する。しかし同時に、原初的で土俗的で生活のエネルギー溢れる音・旋律・様式を色濃く奏でることもできる。
私は、演奏者の本意ではないかもしれないので申し訳ないと思いつつ、天満敦子の演奏する曲は後者の方が似合う気がする。またその音は後者の曲に似つかわしいと思っている。
たとえばブラームスがハンガリー舞曲を作ってもそれはバッハからベートーベン等に至る音楽史の中で作り上げられた楽曲の響きの中に位置付けられる。それは世界性を獲得した精緻な理論と実演に基づく曲である。
それがドボルザークやヤナーチェクになると土俗的な色彩が色濃く出される。それでもそれはクラシック音楽という世界性を獲得する指向を持った曲の中に位置づけられる。
私は天満敦子のバイオリンの音にその思考とは逆の下降意識というか、土俗的な指向性をもった音の広がりを聴きとってしまう。民族楽器・民族芸能という地点まで下降するとそれはなかなか聞き取ったり感じ取ったりすることは困難であるが、バイオリンという楽器がそのような楽器群や音楽群から受け継いだ当初の音を、聞かせてもらっているような気分になる。
これはおそらく聴く側の勝手な思い入れの世界であると思うが、そんな気分にさせてくれる天満敦子の音であり、弾き方であると思う。
あるいは次のように言い換えたらいいのかもしれない。土俗性の匂いの湧きたつ曲にはそのような奏法で弾きこなす技量をそなえている、というように。
現代日本の作曲家の曲も精力的に弾きこなしている姿からみても、そのような言い方の方が正しいのかもしれない。
「望郷のバラード」は、悪名高きチャウシェスク時代のルーマニアからの亡命者にまつわるエピソードがあり、それは解説に詳しく記載されている。天満敦子ならではの曲である。
ここにおさめられたコレルリ、ヘンデル、ベートーベン、ブラームス、サラサーテといった作曲家の有名な曲も、この「望郷のバラード」にたどり着くための前座のような役割かもしれない。ヘンデルのバイオリンソナタ第4番も、スラブ的な曲に聞こえてしまう、といったらとても失礼に当たるかもしれないが‥。
ただしこの「愛国的」という言葉については、私は「日本」という国のあり様と単純にダブらせて理解してほしくない。「国家」そのもののあり様、捉え方が基本的に違うように思う。これはなかなか納得できるようには展開できないが、いつかは自分なりに述べたいと思っている。