Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「東北大学資料館」と「魯迅記念展示室」(2)

2014年08月26日 16時43分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 1960年代末から1973年までの紛争について、東北大学がどのようにとらえているのか、「歴史のなかの東北大学」という展示コーナーでどのように展示しているかでおおよそのことはわかると考えてみた。



 帝国大学時代から2014年までの長い歴史であるから、そんなに多くは展示はないものと考えた。しかし大学紛争の時代という区分で、横2メートルほどのパネル1枚と展示品から見る限りではそれなりのスペースはとっているようだ。
 だが、その内容は思った以上にひどいものであった、としか言いようがない。

 敗残兵は語ってはいけないのかもしれない。歴史は勝って生き残ったものが記すものであろう。だが、死に絶えたわけではない。墓に入るまでに以下のような捨て台詞くらい吐いても人生の汚点にはなるまい。しかしこれでも抑制を効かせたつもりである。

 「1969年には、全国的な学生運動の高揚のなかで、教養部を中心に、全共闘系学生による後者の占拠・封鎖が多発。こうした紛争は教育環境の破壊、留年者の大量発生などの形で、「一般学生」の学生生活にも深刻な影響を及ぼした。」と記載されている。」



 張り出されている写真は、教育課程分離と青葉山移転問題での学生集会(1966年)、薬学部棟の完成(1969年)、教養部バリケード封鎖解除(1969年)、入試合格発表(1974年)、宮城県沖地震被害(1978年)の5枚の写真が掲げられている。そして展示品のひとつが「国史闘争委員会の旗」と当時の機動隊が学生に向けて発射した催涙弾である。
 まず、「全共闘系学生」と「一般学生」の並列は昔からだが、「一般学生」と「全共闘系学生」の区別はどこにあるのか。学生大会で「全共闘系学生」を支持した「一般学生」とは「被害者」なのか。「学生生活に深刻な影響」は具体的に何を指すのか。
 さらに学生から戦利品のように旗を展示し、さらに催涙弾の残骸をその旗の上に飾る神経が私には到底理解できないものがある。
 そして1972年の紛争、バリケード封鎖と大量留年が1969年の紛争と区別もつかずに「大量留年」という言葉で代用されている。無論1969年から大量留年が3割を超えて常態化していたが、さらに突出して6割を超えたのが1972年である。しかも6割の留年は2年も続いたのである。
 大量留年は「全共闘系学生」の行為による「一般学生」の被害ではない。「一般学生」が封鎖解除に抗議して試験を「ボイコット」したのである。ここでも「一般学生」という言葉が意味不明に使用されている。みんな「学生生活」に多大の影響があるのを承知でボイコットをしたのである。そして「一般学生」であった私に限らず多くの友人が「全共闘系学生」にいつの間にかなっていたのである。
 私もまた多くの友人も、「全共闘系学生」であったことに特段後ろめたさも後悔もないと思う。自分の行為と思想とその後の人生に責任をもって生きてきている。「悪」が独り歩きしていたわけではない。
 そして1972年の紛争の写真は無い。あの大量の試験ボイコットの写真1枚ない。しかし何も私の関わったことを写真で飾ってほしい、と願うほどおめでたい人間では私は無い。
 1972年以降、それまでの騒動が無かったように授業をすることだけに汲々として学生の前から逃げ回っていた教養部教授会の体質が現れている。それを追求しきれなかった私たちの力不足があるのが、とても残念である。ここでも都合悪いことはなかったことにして写真も言及もしたくないという、「隠ぺい体質」が昔と変わらずにある。



 暗澹とした思いで、この資料館から足早に退場した。帰りの新幹線の中でパンフレットを見ると「歴史のなかの東北大学」(300円)、「魯迅と東北大学」(260円)という、展示内容をまとめたというガイドブックが販売されている。これに省略されたものが記載されているのかとも思う。
 両方ともに手に入れたいと思っている。

 さらに帰宅後、ネットで「東北大学資料館」のホームページを見ると「東北大学百年史」の存在を知った。第2、4、8巻に私が関係した時期の記載があるようだ。こちらも見ながら私の思いを記載しなくてはいけないと思うようになった。今度仙台に行くことがあったらこの資料館で「百年史」の閲覧・コピーを是非ともしなくてはいけないようだ。教養部史は入間田宣夫という有名な日本史の教授である。私も随分著書は読んでいる。キチンとした論考をされているのであろうか。それとも「大学」の論理が先に立っているのであろうか。

 もうひとつ不思議なことがある。この資料館のホームページでは、さまざまな時代の写真資料が閲覧できる。1969年当時の紛争の写真も少しはある。ところが1970年から1975年までの写真がほとんどない。特に紛争にかかわる写真はゼロである。当時の教養部教授会は機動隊の導入時や試験ボイコット時の写真を持っていないか、それを記録することすらしていないのである。ひょっとしたら宮城県警に学生を逮捕させるために秘蔵していて、いつの間にか私の手元に残った写真がそれにあたるのであろうか。だが、どんなに請われても私はその写真は絶対に提供する気など、今の時点ではまったくない。
 パネル展示では1969年の封鎖解除では河北新報の写真を提供してもらっているが、1972年当時の写真は河北新報にも東北放送にもないわけが無い。他の新聞社にもあるはずである。探そうという気がさらさらない、あるいは公開したくないだけなのだろうか。恥ずかしいことである。

 ちなみに仙台市史には次のような記述がある。昨年の同窓会では「僕たちの参加した運動というのはこんな程度のものに過ぎなかったかのかな?」などという感想もあったものである。客観的な時系列ではそうなのかもしれないが、せめてこの程度の把握があればあのような展示にはならないと思う。

   

 


「東北大学資料館」と「魯迅記念展示室」(1)

2014年08月26日 13時03分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨日魯迅を私がどのように読んだか、そして魯迅が仙台の地で(日本でといった方がよりよいかもしれないが)何を考えたのか、記載してみた。
 それは仙台の片平キャンパス内にある「東北大学資料館」の「魯迅記念展示室」の展示の感想を記載するにあたってどうしても自分なりに整理しておきたいと思ったからである。
 今年松島を訪れたとき旧仙台医学専門学校で魯迅が学んだ「階段教室」に触れた。「階段教室」は片平キャンパスの大学本部棟の裏手に人目につかない場所に隠れるように建っている。私はこの建物に記憶が無い。江沢民はここで魯迅が受講した席に座って感慨深げにしていた、というがどのような思念が去来したのであろうか。魯迅が生きていたら、江沢民の政治をどのように評価したか、江沢民を迎えた東北大学というものをどのように思ったか、ここでは触れないでおこう。

      

 この階段教室を挟んで立っている立派な本部棟の向かい側の古い建物に「大学資料館」がある。昨年の同窓会のときにはこの前をみんなで歩いたものの、まったく気にも留めなかった。話題にすればよかった。事前の下見、予習が足りなかったと反省している。

 この資料館は無料で一般開放されている。2階に「歴史のなかの東北大学」という展示や企画展示室(8月末まで「東北大学とノーベル賞」)があり、常設として「魯迅記念展示室」がある。2011年開設ということでごく最近である。



 魯迅記念展示室は当時の仙台の様子から、魯迅(周樹人)の入学許可などの資料のほか、藤野厳九郎教授が添削したというノート、人となりも中心になっている。そしてこのコーナーの最後は東北大学がいかに留学生を受け入れてきたか、特に中国からの著名な留学生の紹介で終わっている。
 藤野教授が魯迅に贈った実物大の写真や朱筆で丁寧に添削してあるノートなどは、教授の人となりを窺わせとても興味深く見た。そして小説「藤野先生」の記述が事実とかなり一致していると思った。魯迅の藤野厳九郎教授に対する敬愛は小説の末尾に記載されているとおりのものなのか、と感慨深かった。
 昨日引用しなかったのでここに記しておく。

 ‥彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。仰いで灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語りだしそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。
              「藤野先生」(1926年10月、岩波版魯迅選集、竹内好訳)

   

 さて私が引っかかったのは、展示のこの表現である。解説の文章を記すと、「「吶喊」の自序」によれば、医学生・周樹人が文学の道を志すきっかけとなったのは、仙台医学専門学校二年生のとき授業で見た日露戦争に関する幻灯写真のなかの、中国民衆の姿であったという。この話には文芸作品としのある種の創作が含まれていると思われるが、戦争に関する幻灯が学校で上映されたこと自体は、現在残されている資料からも確認できる。「幻灯」の記憶は、藤野先生の思い出とともに、作家「魯迅」の中に、重い記憶として永く留められていたのだろう。」となっている。
 私はこの記述を見てビックリした。
1.どうして引用が「吶喊自序」であって小説「藤野先生」ではないのか。展示の大きなスペースを割いて藤野厳九郎教授の人となり、周樹人に対する指導の熱心さなどを展示しているのにかかわらず。
2.どうして「幻燈事件」の内容が中国民衆の姿だけなのか。「吶喊自序」にも言及してある「見せしめのため日本軍の手で首を斬られようとしている」が欠落しているのか。小説「藤野先生」では、「首を斬る」は「銃殺」になっているが、この場面で級友が「万歳!」といって「みな手を拍って歓声をあげた」ことも重要な要素になっている。
3.確かに「藤野先生」は小説であり創作も含まれている。しかしもしも「記憶」の思い返しであってもそこには作者の思想を通過したフィクションは紛れ込む。何が創作か事実かは、現場にいた級友の証言を抜きにしては確定しない。大学の調査では級友からの聞き取りでそこまで確認できなかったと言いたいようである。それならば何故「確認が取れなかった」と記さないのか?
4.この展示では周樹人が医学をやめた理由はあまりに薄っぺらい。日本の民衆による一中国留学生に対する心無い様々な仕打ちや偏見(これが仙台だけの記憶ではなく日本での印象全般であったと推察することもできる)、そして対極にあるとしるされている藤野教授の指導など総体的にとらえなければならないのではないか。
5.展示では藤野教授のプラス評価だけがクロースアップされている。仙台医学施文学校と東北帝国大学、後身の東北大学の留学生に対するプラス評価ばかり並べていては、日中の歴史は語ることはできない。そこに横たわるマイナス評価も冷静に検証する姿勢は「大学」だからこそ問われるのではないか?
6.「展示」というものは展示を見たものに考える素材を提供するものである。展示する側があらかじめ得た結論はあくまでも検証の素材として提供されなければいけない。1960年代半ばの私に示された中学生の国語教科書の「記述削除」のように、隠ぺいするばかりでは正確な読みは出来ない。

 ここまで考えたとき私は、この「隠ぺい体質」という言葉がとても気になった。都合の悪いこと、対応の面倒なことを避けてとおる体質というのは私が体験した1970年代前後の教養部の体質そのものではないのか。東北大学というのは、そのころから何ら変わっていないのではないか。ひょっとしたら周樹人が学び魯迅へと飛躍しようとした時代からも変わっていないのではないか。
 私はとても暗澹とした気分になった。私は大学から逃れるように仙台から離れた。だからその後の大学に何ら関わっていない。外部の感想でしかないが、それでも「国立」である以上、私にも発言する権利くらいはある。

 そこで当初は見る気もなかった「歴史のなかの東北大学」の展示も見ることにした。当時のことがどのような視点から展示されているか興味が湧いてきた。

変換ミス

2014年08月26日 10時22分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 コメントをふたついただいた。ありがとうございます。

 「私の「魯迅」事始めと仙台」の指摘してもらった変換ミスと言葉の間違いを訂正した。一部言い回しも変えた。
 自分では間違いが無いと思っているので、2回ほど見直したのに見落としている。気がつくと情けないミスばかりである。校正とまではいかなくとも、見直しでちゃんと見つけられるようになりたいものだ。

 これからセキセイインコの籠の掃除と餌・水・菜っ葉の取り換えをしてからいよいよ大学史料館の感想に着手する。午後出かけるまでに仕上げることができるだろうか。心もとない。

 本日は曇空。空の雲が厚く垂れこめている。湿気もかなり高いようだ。夜に雨が降らないといいのだが‥。