1960年代末から1973年までの紛争について、東北大学がどのようにとらえているのか、「歴史のなかの東北大学」という展示コーナーでどのように展示しているかでおおよそのことはわかると考えてみた。
帝国大学時代から2014年までの長い歴史であるから、そんなに多くは展示はないものと考えた。しかし大学紛争の時代という区分で、横2メートルほどのパネル1枚と展示品から見る限りではそれなりのスペースはとっているようだ。
だが、その内容は思った以上にひどいものであった、としか言いようがない。
敗残兵は語ってはいけないのかもしれない。歴史は勝って生き残ったものが記すものであろう。だが、死に絶えたわけではない。墓に入るまでに以下のような捨て台詞くらい吐いても人生の汚点にはなるまい。しかしこれでも抑制を効かせたつもりである。
「1969年には、全国的な学生運動の高揚のなかで、教養部を中心に、全共闘系学生による後者の占拠・封鎖が多発。こうした紛争は教育環境の破壊、留年者の大量発生などの形で、「一般学生」の学生生活にも深刻な影響を及ぼした。」と記載されている。」
張り出されている写真は、教育課程分離と青葉山移転問題での学生集会(1966年)、薬学部棟の完成(1969年)、教養部バリケード封鎖解除(1969年)、入試合格発表(1974年)、宮城県沖地震被害(1978年)の5枚の写真が掲げられている。そして展示品のひとつが「国史闘争委員会の旗」と当時の機動隊が学生に向けて発射した催涙弾である。
まず、「全共闘系学生」と「一般学生」の並列は昔からだが、「一般学生」と「全共闘系学生」の区別はどこにあるのか。学生大会で「全共闘系学生」を支持した「一般学生」とは「被害者」なのか。「学生生活に深刻な影響」は具体的に何を指すのか。
さらに学生から戦利品のように旗を展示し、さらに催涙弾の残骸をその旗の上に飾る神経が私には到底理解できないものがある。
そして1972年の紛争、バリケード封鎖と大量留年が1969年の紛争と区別もつかずに「大量留年」という言葉で代用されている。無論1969年から大量留年が3割を超えて常態化していたが、さらに突出して6割を超えたのが1972年である。しかも6割の留年は2年も続いたのである。
大量留年は「全共闘系学生」の行為による「一般学生」の被害ではない。「一般学生」が封鎖解除に抗議して試験を「ボイコット」したのである。ここでも「一般学生」という言葉が意味不明に使用されている。みんな「学生生活」に多大の影響があるのを承知でボイコットをしたのである。そして「一般学生」であった私に限らず多くの友人が「全共闘系学生」にいつの間にかなっていたのである。
私もまた多くの友人も、「全共闘系学生」であったことに特段後ろめたさも後悔もないと思う。自分の行為と思想とその後の人生に責任をもって生きてきている。「悪」が独り歩きしていたわけではない。
そして1972年の紛争の写真は無い。あの大量の試験ボイコットの写真1枚ない。しかし何も私の関わったことを写真で飾ってほしい、と願うほどおめでたい人間では私は無い。
1972年以降、それまでの騒動が無かったように授業をすることだけに汲々として学生の前から逃げ回っていた教養部教授会の体質が現れている。それを追求しきれなかった私たちの力不足があるのが、とても残念である。ここでも都合悪いことはなかったことにして写真も言及もしたくないという、「隠ぺい体質」が昔と変わらずにある。
暗澹とした思いで、この資料館から足早に退場した。帰りの新幹線の中でパンフレットを見ると「歴史のなかの東北大学」(300円)、「魯迅と東北大学」(260円)という、展示内容をまとめたというガイドブックが販売されている。これに省略されたものが記載されているのかとも思う。
両方ともに手に入れたいと思っている。
さらに帰宅後、ネットで「東北大学資料館」のホームページを見ると「東北大学百年史」の存在を知った。第2、4、8巻に私が関係した時期の記載があるようだ。こちらも見ながら私の思いを記載しなくてはいけないと思うようになった。今度仙台に行くことがあったらこの資料館で「百年史」の閲覧・コピーを是非ともしなくてはいけないようだ。教養部史は入間田宣夫という有名な日本史の教授である。私も随分著書は読んでいる。キチンとした論考をされているのであろうか。それとも「大学」の論理が先に立っているのであろうか。
もうひとつ不思議なことがある。この資料館のホームページでは、さまざまな時代の写真資料が閲覧できる。1969年当時の紛争の写真も少しはある。ところが1970年から1975年までの写真がほとんどない。特に紛争にかかわる写真はゼロである。当時の教養部教授会は機動隊の導入時や試験ボイコット時の写真を持っていないか、それを記録することすらしていないのである。ひょっとしたら宮城県警に学生を逮捕させるために秘蔵していて、いつの間にか私の手元に残った写真がそれにあたるのであろうか。だが、どんなに請われても私はその写真は絶対に提供する気など、今の時点ではまったくない。
パネル展示では1969年の封鎖解除では河北新報の写真を提供してもらっているが、1972年当時の写真は河北新報にも東北放送にもないわけが無い。他の新聞社にもあるはずである。探そうという気がさらさらない、あるいは公開したくないだけなのだろうか。恥ずかしいことである。
ちなみに仙台市史には次のような記述がある。昨年の同窓会では「僕たちの参加した運動というのはこんな程度のものに過ぎなかったかのかな?」などという感想もあったものである。客観的な時系列ではそうなのかもしれないが、せめてこの程度の把握があればあのような展示にはならないと思う。
帝国大学時代から2014年までの長い歴史であるから、そんなに多くは展示はないものと考えた。しかし大学紛争の時代という区分で、横2メートルほどのパネル1枚と展示品から見る限りではそれなりのスペースはとっているようだ。
だが、その内容は思った以上にひどいものであった、としか言いようがない。
敗残兵は語ってはいけないのかもしれない。歴史は勝って生き残ったものが記すものであろう。だが、死に絶えたわけではない。墓に入るまでに以下のような捨て台詞くらい吐いても人生の汚点にはなるまい。しかしこれでも抑制を効かせたつもりである。
「1969年には、全国的な学生運動の高揚のなかで、教養部を中心に、全共闘系学生による後者の占拠・封鎖が多発。こうした紛争は教育環境の破壊、留年者の大量発生などの形で、「一般学生」の学生生活にも深刻な影響を及ぼした。」と記載されている。」
張り出されている写真は、教育課程分離と青葉山移転問題での学生集会(1966年)、薬学部棟の完成(1969年)、教養部バリケード封鎖解除(1969年)、入試合格発表(1974年)、宮城県沖地震被害(1978年)の5枚の写真が掲げられている。そして展示品のひとつが「国史闘争委員会の旗」と当時の機動隊が学生に向けて発射した催涙弾である。
まず、「全共闘系学生」と「一般学生」の並列は昔からだが、「一般学生」と「全共闘系学生」の区別はどこにあるのか。学生大会で「全共闘系学生」を支持した「一般学生」とは「被害者」なのか。「学生生活に深刻な影響」は具体的に何を指すのか。
さらに学生から戦利品のように旗を展示し、さらに催涙弾の残骸をその旗の上に飾る神経が私には到底理解できないものがある。
そして1972年の紛争、バリケード封鎖と大量留年が1969年の紛争と区別もつかずに「大量留年」という言葉で代用されている。無論1969年から大量留年が3割を超えて常態化していたが、さらに突出して6割を超えたのが1972年である。しかも6割の留年は2年も続いたのである。
大量留年は「全共闘系学生」の行為による「一般学生」の被害ではない。「一般学生」が封鎖解除に抗議して試験を「ボイコット」したのである。ここでも「一般学生」という言葉が意味不明に使用されている。みんな「学生生活」に多大の影響があるのを承知でボイコットをしたのである。そして「一般学生」であった私に限らず多くの友人が「全共闘系学生」にいつの間にかなっていたのである。
私もまた多くの友人も、「全共闘系学生」であったことに特段後ろめたさも後悔もないと思う。自分の行為と思想とその後の人生に責任をもって生きてきている。「悪」が独り歩きしていたわけではない。
そして1972年の紛争の写真は無い。あの大量の試験ボイコットの写真1枚ない。しかし何も私の関わったことを写真で飾ってほしい、と願うほどおめでたい人間では私は無い。
1972年以降、それまでの騒動が無かったように授業をすることだけに汲々として学生の前から逃げ回っていた教養部教授会の体質が現れている。それを追求しきれなかった私たちの力不足があるのが、とても残念である。ここでも都合悪いことはなかったことにして写真も言及もしたくないという、「隠ぺい体質」が昔と変わらずにある。
暗澹とした思いで、この資料館から足早に退場した。帰りの新幹線の中でパンフレットを見ると「歴史のなかの東北大学」(300円)、「魯迅と東北大学」(260円)という、展示内容をまとめたというガイドブックが販売されている。これに省略されたものが記載されているのかとも思う。
両方ともに手に入れたいと思っている。
さらに帰宅後、ネットで「東北大学資料館」のホームページを見ると「東北大学百年史」の存在を知った。第2、4、8巻に私が関係した時期の記載があるようだ。こちらも見ながら私の思いを記載しなくてはいけないと思うようになった。今度仙台に行くことがあったらこの資料館で「百年史」の閲覧・コピーを是非ともしなくてはいけないようだ。教養部史は入間田宣夫という有名な日本史の教授である。私も随分著書は読んでいる。キチンとした論考をされているのであろうか。それとも「大学」の論理が先に立っているのであろうか。
もうひとつ不思議なことがある。この資料館のホームページでは、さまざまな時代の写真資料が閲覧できる。1969年当時の紛争の写真も少しはある。ところが1970年から1975年までの写真がほとんどない。特に紛争にかかわる写真はゼロである。当時の教養部教授会は機動隊の導入時や試験ボイコット時の写真を持っていないか、それを記録することすらしていないのである。ひょっとしたら宮城県警に学生を逮捕させるために秘蔵していて、いつの間にか私の手元に残った写真がそれにあたるのであろうか。だが、どんなに請われても私はその写真は絶対に提供する気など、今の時点ではまったくない。
パネル展示では1969年の封鎖解除では河北新報の写真を提供してもらっているが、1972年当時の写真は河北新報にも東北放送にもないわけが無い。他の新聞社にもあるはずである。探そうという気がさらさらない、あるいは公開したくないだけなのだろうか。恥ずかしいことである。
ちなみに仙台市史には次のような記述がある。昨年の同窓会では「僕たちの参加した運動というのはこんな程度のものに過ぎなかったかのかな?」などという感想もあったものである。客観的な時系列ではそうなのかもしれないが、せめてこの程度の把握があればあのような展示にはならないと思う。