Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

印刷

2014年08月28日 12時00分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午前中に予定していた退職者会の会報の印刷は無事終了。いつものことだが、事前に校正、誤字・脱字チェックを念入りにしているつもりでも、印刷が終了し袋詰めの段階になると、チェック漏れに気がつく。これはもう組合のビラや機関紙を作り始めて以来変わらない。時々は妻にも目をとおしてもらうが、指摘されることが多々ある。そのたびに第三者の目というチェックが必要だと実感する。
 しかし20年も前のプリンターに比べ、印刷が早くなったし、仕上がり面が実に綺麗になっている。音が静かで印刷ミスや紙送りでのトラブルもまず起こらない。しかも両面印刷機能がほぼ標準装備されて楽である。

 午後には友人の入院した病院に見舞いに出かける予定。その後、夕刻から別の友人と久しぶりに石川町で会うことになっている。飲み過ぎないように自重しなくてはいけない。

 魯迅を語りながら42年も前のことを記載したら、いろいろ感想をいただいている。ありがとうございます。


「絶望の虚妄なること、希望と相同じい」(魯迅)

2014年08月28日 06時57分41秒 | 読書
「沈黙しているとき、私は充実を覚える。口を開こうとすると、たちまち空虚を感ずる。
 過ぎ去った生命は、すでに死滅した。私はこの死滅を喜ぶ。それによって、かつてそれが生存したことを知るからだ。死滅した生命は、すでに腐朽した。私はこの腐朽を喜ぶ。それによって、今なおそれが空虚でないと知るからだ。
 生命の泥は地に棄てられ、喬木を生ぜずして、ただ野草を生ずる。これ、わが罪過である。
 ・・・・私は、この野草の死滅と腐朽の速やかならんことを願う。もしそうでなければ、そもそも私は生存しなかったことになる。実際それは、死滅と腐朽よりもさらに不幸なことだ。
 去れ、野草、わが題辞とともに。」
              「題辞」(魯迅著「野草」所収、1927年4月26日)


「私の胸は、ことのほかさびしい。
 だが、私の胸は安らかである。愛憎もなく、享楽もなく、色と音もない。
 ・・・・
 わが青春の過ぎ去ったことを、私はとうに気づかないわけではなかった。ただ身外の青春のみは、当然在るものと信じていた。星、月光、瀕死の蝶、闇のなかの花、みみずくの不吉な声、血を吐く杜鵑(ほととぎす)、笑の渺茫、愛の乱舞……たとえ悲涼縹渺の青春であるにしても、青春はやはり青春である。
 だが今は、なぜ、このように寂しいのか。身外の青春さえもことごとく過ぎ去ったわけではあるまい。世界の青年がことごとく年老いたわけではあるまい。
 ・・・・
 私は自分で、この空虚のなかの暗夜に肉薄するより仕方ない。たとえ身外の青春を尋ねあたらずとも、みずからわが身中の遅暮を振い立たせねばならぬ。だが暗夜はそもそも、どこにあるのか。今は星なく、月光なく、笑の渺茫と愛の乱舞さえない。青年たちは安らかである。そして私の前には、ついに真実の暗夜さえないのだ。

 絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい。」
              「希望」(魯迅著「野草」所収、1925年1月1日)


 魯迅にこの二つの文章があることを思い出した。短いと分かりにくいので少し長いが引用してみた。長く引用したからといってわかりやすい文章ではない。理解できない、といった方がいいかもしれない。竹内好は解説の中で「『野草』は当時の急進的インテリゲンツィアの反抗の心理を代表する記念碑的作品であるが、これがこのような屈折の多い表現を取らざるを得なかったところに、時代と作者の負わねばならぬ制約があった。」と書き、魯迅自身は「誇張して言えば散文詩」と書いているとのことである。また「希望」は「青年の銷沈ぶりに驚いて「希望」を書いた」と記している。
 ふたつとも詩であり検閲を逃れるための文章であるから、比喩の読み解きから始めなければならない。
 野草、が何を喩えているのか、暗夜は何を意味するのか。
 これを読んだとき、私がどれだけ理解したかも自身はまるでない。アフォリズムをよむようにして、「沈黙しているとき、私は充実を覚える。口を開こうとすると、たちまち空虚を感ずる」「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」という言葉に寄っていただけかもしれない。
 前者の言葉は、わかりやすい。これはいつも実感することだ。しかし後者などはよくよく考えてもわかりにくい。前後の文章、あるいは「希望」という高々2頁の文章全体を読んでも難しい。それでも当時はわかったような気にもなっていた。それこそ「銷沈」していたからである。
 引用した文章の意味も、今の年齢になってようやくわかることもある。わからないことがより鮮明になることもある。
 いつも頭に残っている文章ではないにしても、時々ふと意識の中に浮かび上がってきて、あらためてどういう意味だったか、と頭を悩ませる言葉である。