Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ヨコハマトリエンナーレ2014」(1)

2014年08月08日 23時29分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 ヨコハマトリエンナーレ2014の夜間特別鑑賞会に参加した。
 先ほど帰ったばかりなので、とりあえず本日はチラシを掲載して、コンセプト「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」の概要に触れることにする。

 まず「華氏451」はレイ・ブラッドベリが1953年に発表したSF小説の題名である。ウィキペディアでは以下のように説明されている。

<概要>
 本の所持や読書が禁じられた、架空の社会における人間模様を描いた作品。題名は(本の素材である)紙が燃え始める温度(華氏451度≒摂氏233度)を意味している。
 ブラッドベリ自身は『この作品で描いたのは国家の検閲ではなく、テレビによる文化の破壊』と2007年のインタビューで述べている。
 <あらすじ<ー>
舞台は、情報が全てテレビやラジオによる画像や音声などの感覚的なものばかりの社会。そこでは本の所持が禁止されており、発見された場合はただちに「ファイアマン」(fireman ― 本来は『消防士』の意味)と呼ばれる機関が出動して焼却し、所有者は逮捕されることになっていた。(表向きの)理由は、本によって有害な情報が善良な市民にもたらされ、社会の秩序と安寧が損なわれることを防ぐためだとされていた。
 密告が奨励され、市民が相互監視する社会が形成され、表面上は穏やかな社会が築かれていた。だがその結果、人々は思考力と記憶力を失い、わずか数年前のできごとさえ曖昧な形でしか覚えることができない愚民になっていた。
 そのファイアマンの一人であるガイ・モンターグ(Guy Montag)は、当初は模範的な隊員だったが、ある日クラリスという女性と知り合い、彼女との交友を通じて、それまでの自分の所業に疑問を感じ始めた。ガイは仕事の現場で拾った数々の本を読み始め、社会への疑問が高まっていく。そして、ガイは追われる身となっていく。

 この小説に描かれた、本を燃やし尽くす近未来社会とは、「大切なものが忘れられていく世の中すべてに対する予言に満ちた警告にほかならない。」「この小説のテーマを受け継ぐかのような個々の現代的な表現がある。隠されていること、語りたくても語ることが許されない事態、‥それらからる目をそらせていては、事態はさらに悪化する。大事な忘れ物に気がつかなかった「華氏451度」の近未来社会は世界戦争に突入し、滅び去った」という認識のもとに、アーティスティック・ディレクターに森村泰昌を迎えて開催された。
 なかなか刺激的な作品が横浜美術館をはじめとする会場に展示されている。今夜は横浜美術館内部だけを見て回っただけだが、おいおい全会場を回ってみたいと思っている。

 詳細は明日以降順次掲載予定。

 昨日の横浜美術館


 随分ぶれている

横浜トリエンナーレ2014

2014年08月08日 12時34分32秒 | 読書
      

 横浜トリエンナーレは2001年から開催され、今回で5回目。第1回と第2回は見に行ったことがあるが、取り立てて強い印象は残っていない。
 どうも「インスタレーション」と呼ばれる作品にはいつもあまりいい印象を感じない。作者の意図が私には理解できない場合が多いのと、細かく丁寧な仕上げがなされていないのが、とても気にかかる。
 周囲の環境にポンと置かれた作品が、その環境とどのような緊張関係をもったり、調和を意図しているのか、「見る・体験する」人との関係をどのように想定しているのか‥理解する糸口を見つけることができない。
 また細部に対するこだわりが感じられず、周囲の汚れが放置されていたり、いい加減としか言いようのない設置の仕方などを見ると、まず見ようとする気も、解釈しようとする気分も湧いてこないので素通りすることにしている。
 このトリエンナーレが開始されたときにまずは親しむことを目的に会場に2回ほど足を運んだ。2回目も一度訪れた。どうしても分からなかった。港の傍の会場で旗が限りなく多数はためいていたり、山下公園の隅にあった大きな造形物などを見ても、その必然性や作者の造形意志は伝わらなかった。
 それでも時折他の美術館などで、この種の作品に出合い、細部への細かな気配りや丁寧な仕上げ・展示にこだわったものについては、面白いと思うものにいくつかであった。特に作者名や作品名を覚えるまでにはなっていない。
 今回、初めて「解説」というものを聞きながら鑑賞する機会を得ることになる。どんな風に感じるか、楽しみである。
 好奇心は大いにあるのだ。自分の頭が理解したり、感覚として肯定的に受け入れられるか、頭の柔軟性に挑戦してみるということである。