Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

まだおさまらない風

2014年08月10日 23時37分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 大雨・強風・波浪注意報が出たままである。雨は止んでいるが、この時間になっても風が強い。生暖かい南風がうなり声を上げている。南側の窓ガラスが吹き込んだ風と雨ですっかりよごれてしまった。
 雨は明け方までは断続的に降る予想になっている。明日の昼間は晴れて気温が32℃にまた上がるようである。
 早く風がおさまってほしい。腰の痛みは薄らいできたので、明日は外出をして様子を見てみようと思っている。

 しかし台風11号の爪痕は大きいようだ。これからの農業関係の被害や、関東地方では突風の被害状況も明らかになってくるであろう。被害の少しでも軽いことを祈りたい。

 明日こそははヨコハマトリエンナーレ2014の感想をアップしたいものである。何か宿題を抱えてオロオロしているようで気持ちが悪い。取りあえず本日はこれから風呂に入り、就寝としたい。

長谷川等伯の動物図

2014年08月10日 16時24分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 スキャナーを使った作業が出来ないので、すでにスキャンしていたいくつかの画像をひっぱり出してきた。
 長谷川等伯の動物が面白いと思っていいくつか動物の部分を抜き取っていた。



 まずは竹林猿猴図の猿の家族。雌猿が一頭の小猿を背に負い、遠くから雄猿が見ている図である。猿の牧谿の「観音猿鶴図」の猿に拠った図であるそうだ。確かに描き方はそっくりであるが、牧谿の猿が自然の一部として描かれているのではなく、等伯の絵は猿が主題、それも家族というひとかたまりとして主題になっていると多くの解説で指摘されている。私もそれ説を受け入れることにしよう。雄猿が父猿であるとして、この父猿と母猿の距離が微笑ましい距離である。これ以上近すぎてはくどくなる。遠すぎると関係の糸が切れてしまいそうになる。全体の絵の幅六曲の中で二曲と半分ほどの距離である。見守るという絶妙の距離を取っている。母猿は子猿に密着している。人間の父子・夫婦・母子関係を猿の社会にそのまま投影をしているのだが、この距離の取り方が桃山時代の当時の人間関係の反映であったと思われる。現代にそのままあてはまるかどうかは、見る人のそれぞれの判断である。



 次が、松に鴉・柳に白鷺図の烏の一家。この絵は左双が白鷺の番だが、抱卵もしておらず雛もいない番を描いており、雌雄の距離は六曲の内五曲の距離がある。雄が雌を意識して遠くから近寄っている図である。これに対して右双はすでに雛がかえっている鴉の一家である。先の猿猴図からすれば距離がとても近い。これだけをとれば距離が近すぎでくどく感じるかもしれないが、左双の白鷺の雌雄と必然的に見比べるのでくどさ、嫌味を感じない。これまでこのように描かれることはなかったという鴉の一家の情愛を描いたということで、画期的な絵画と云われる。
 この鴉の雛、3羽が個性を与えられている。餌をねだる1羽、くちばしを閉じて気ののつよそうな鋭い眼を外に向ける1羽、後ろ向きに何かを威嚇でもしているのか、外に対する興味が強そうな1羽。母親の鴉の表情・姿態が少し間が抜けているように思うが皆さんはどう思うだろうか。



 私が一番好きなのは、次の竹虎図の雌雄の虎である。解説によれば、上(右双)が雄、下(左双)が雌。雄が雌に求愛しているポーズだということである。私もそれを前提に鑑賞した。これはなかなか剽軽である。人間でたとえれば雌の方がひょっとしたら身分が高い女性なのかもしれない。それゆえなかなか成就しない関係かもしれない。女性は男性に興味が無いのかもしれない。あるいはもったいぶって興味がなさそうな仕草をしてるだけかもしれない。見下しているのかもしれない。そんなドラマを見ているような図である。
 両者の間に実は3本の竹があり、雌の虎の後ろには竹が4本立っている空間がある。これもまた微妙な両者の関係を暗示している。3本の竹のある距離、そして雌には退路がある。いつでも去っていく空間を確保しているのだ。雌からすれば3本の距離は近い。雄からすればとても遠い距離、というのは私の思い入れが過ぎるだろうか。

  

 最後は涅槃図に描かれた動物たちの絵である。東京美術の「もっと知りたい」シリーズ「長谷川等伯」(黒田泰三著)に掲載されている涅槃図に描かれた動物を抜書きしたものを利用させてもらった。
 解説では「動物の悲しみの優れた表現」とあるが、私の見方がまずいのだろうか。私には釈迦の死を嘆き悲しんでいるようには見えない。どの動物も寛いでいるように見える。釈迦の前で毒気を除かれ、平安を得たもののように思える。嘆き悲しんでこの世の生に執着している人間よりも静かに悟っているように見えて仕方がない。像や獅子、牛・駱駝・馬は明らかに泣いている。だが、猫・虎・鳥・ウサギ・狐・鹿は嘆いているかもしれないが感情は抑えている、泣いてはいない。私には泣いている動物よりもこの静かに事態を受け入れているように見える動物たちが好みである。等伯の心境かもしれない、と勝手に思っている。




台風に地震、さらに栃木では突風

2014年08月10日 14時38分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 腰が痛いので、立ったり座ったりしなくてはいけないスキャナー作業がつらい。ヨコハマトリエンナーレ2014の感想のアップが中断してしまっている。無理は出来ないので、やむを得ない。
 昨日妻とみなとみらいから家まで寄り道をしながら6キロほどをブラブラと歩いて帰った。そのとき太もものあたりの筋肉が何となくだるかった。夏風邪かな?と思っていたら今朝から腰が痛くなった。筋肉の痛みと腰の痛みは無関係かもしれないが、今日一日用心している。
 じっとしていると痛いので、10分刻み位で、姿勢をゆっくりとかえる。結構面倒である。急に体の向きを変えるとピリッと痛みがくる。

 14時まではテレビの台風関連情報をかけっぱなしにしていた。なかなか広範囲の雨の被害である。関東地方では雨がほとんど降らなかったのでかえって助かった面もあるが、それでも浸水被害は出たようだ。さらに突風という風の被害が報道されている。
 その上に青森・岩手の南部地方を中心とした地震が発生した。被害はなかったようだが慌ただしい。

 さて午前中に「集団の規範」をアップして最後に「こんな観点から戦争というもの、人と人の集団の争いというもの分析したらどうなるのだろうか」と記載したが、少々飛躍し過ぎなので削除した。頭の中では繫がっているのだが、公にするほどまとまっていない。いつかは言及するかもしれないのでそれまでは、ということで削除した。

 青信号の話、自分はどうしているのかを書いた方が良かったと思う。歩行者としての私の基準は、人の流れには身を任せないで自分で判断することを前提にしたうえで、
1.幹線道路(バス通り等)は人通りのある時は信号に従う。
2.青信号で渡るときでも自分で左右の確認、特に左折車の安全確認は必ず行う。
3.幹線道路以外の道路の信号も信号をまず尊重する。
4.特に幼児・小中学生、制服の高校生、老人がいる場合は必ず信号に従う。
5.彼らが信号を無視をしても私は無視をしない。
6.信号のない交差点でも必ず歩行をいったん大きく緩めるか、止まる。
7.自転車・バイクは交通規則を守らないものとして対処する。
こんなところである。
 最近特に怖いのは、ウォークマン・スマホや携帯電話のながら運転のバイク・自転車・自動車。スマホ歩きの歩行者もぶつかったくるので同様に怖い。
 これは他のルールでも大体あてはめて考えることにしている。

集団の規範

2014年08月10日 11時00分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今朝は朝から腰が痛み始めている。ぎっくり腰の前駆症状のような痛みである。朝から団地の管理組合の諮問機関の会議であったが、申し訳ないが欠席させてもらった。
 以前に整形外科で貰った筋肉の緊張を緩めるという薬と痛み止めが各3回分程あるのでこれで今日は様子を見ることにする。明日以降痛みが取れなければ低周波の電気治療を受けるか判断したい。

 台風11号の影響で横浜でも、大雨・洪水・強風・雷・波浪注意報&竜巻注意報が出ていた。つい先ほど、大雨・洪水注意報は警報に切り替わった。
 今は私の住むあたりは降っていない。夜中から降ったりやんだりしていた。風も強弱がある。今は少し弱くなっている。
 雨が上がるとほぼ同時に蝉は鳴きはじめる。雨が降り始めると一斉に鳴き止む。そのほぼ一斉に鳴き止むときに必ず遅れて鳴き止むのがいる。それが微笑ましい。多分鳴きはじめの時もいつも遅れて鳴きはじめるのがいるのだと思うが、それは聞き取れない。

 集団が一斉に行動を起こすというのは動物にとってはとても難しいことなのだと思う。集団で飛んでいる鳥が一斉に向きを変える姿は見ていてほれぼれするほど乱れが少ない。それでも人間の目にはとらえられない一瞬の遅れや方向の違いが生じているのではないかと思う。集団で回遊するイワシなどの群れの動きも同じだと思う。
 草食動物などの集団の群れも、それに少しでも遅れたりすると肉食動物の餌食になったり命を落とす原因になる。

 人間は多分動物の中でもっともこの集団行動が苦手なのかもしれない。集団がいくつもの集団に分離し、階層ができる。一番面白い例が信号待ちの集団である。赤信号で歩行者が交差点で待機していても、赤の内に飛び出す人、青と同時に動き出す人、よそ見をしていて慌てて動き出す人、信号など見ていなくて人につられて動く人、話し込んでいて信号が変わる寸前まで動かずにいる小さな集団、信号が青から赤になって「歩行者優先」をたよりに渡り始める人‥。
 動物的な勘というのは多分人につられて動く人の動きなのだろう。鳥や魚や草食動物の群れを見ていると、個々の個体が自分で判断しているとは思えない。隣りや前の個体の動きに合わせて瞬時に体を動かしているように思える。だから集団が危険な方向に向かえば全滅する。

 私にわからないのは、この集団の動きを律しているのが、判断を任された個体が存在するのか、あるいは集団としての意志がどこかで発揮されるのか、あくまでも前後左右の動きに瞬時に合わせた動きの総体がひとつの意志のように見えるだけなのか、この3つの選択の中に答えはありそうだが、それを特定できない。動物学者は解決して回答を得ているのだろうか?

 人間は基本的には個々人の判断で動いていることになっている。信号待ちも結局自分で青信号を確認している人がたいていは多数である。赤信号の内に飛び出す人もそれでも安全とみなしているわけだから、自分で判断している分類に入る。
 この赤信号でも渡りだす人、この評価はある意味難しい。たとえば生死を分かつかもれない危機(水害やビル内の火事、あるいは人為的な事故など)が押し寄せたときを想定してみよう。その時には信号などという安全装置は作動しない。自分の判断に頼るしかない。生存本能をフル回転して生き延びるための選択をしながら安全を求めて体を動かしていくであろう。その時には他人の行動もひとつの大きな判断基準になる。割と多数の動きに合わせて非難するのも正しい選択の場合がある。ただしいつまでも集団についていくだけではなく、ここぞというときに独自に判断して早目に危機を脱する方途にたどり着く場合もある。
 集団と行動を共にしていても常に自己の判断に集中していることが必要でもあり、納得のいく生死の在り方である。自己の判断と納得性は表裏一体かもしれない。
 信号待ちの人々の集団に話を戻すと、赤信号で渡り始める人は自己の判断をすべてに優先している。ここでは集団の規範は後回しである。
 青信号を自分の目で確認している人もそれが安全度がかなり高い(赤信号を無視する車があることの確率は低い。それは長年の経験則である)と判断している。ただしここでも青信号を過信して左右を確認しないで歩きはじめる人と、青信号になっても左右を確認してわたる人に分けられる。前者は集団行動に盲目に従う人に近い。後者はあくまでも自己の判断を重視するということでは、赤信号でも渡りだす人に近い。
 そして多数派は周囲が動き出すと同時に、信号も左右も見ないでわたる人の群れ。これが動物の群れの行動にもっとも近いかもしれない。同時に危機の時にあくまでも多数についていくことが行動原理で、ひとりに放置されたときにはパニックになる集団である。一般的には事故などでの安全性が高い行動パターンなのかもしれない。
 そして小さな集団内のおしゃべりに気を取られて何もせずに、信号を待っていることすら忘れている人々。残念ながら老若男女問わず意外とこの手の人々は多い。これはもうこの考察からは論外とするしかない。多分危機に遭遇した時にはなからパニック状態になる人々であるように感じる。それも人間という集団の中に取り込まれている人々である。
 信号が赤に変わっても車が飛び出してくることはない事を前提にわたり始める人、これは法規に対する過信であると同時に人の善意に寄りかかる人でもある。同時に危機を自分で判断して対処しているともいえる。赤信号で渡り始める人に近いかもしれない。

 果たしてどの集団がもっとも生存に対する動物的な勘に優れているのであろうか。そして大切なことは生存に対する動物的な勘と、人間としての集団の規範にはズレがあるということである。生存に対する勘が優れていてもそれが人間としての集団の規範からは「正しい」ということと違うのである。
 信号待ちは道路通行という社会的規範である。自己の判断だけならば信号も横断歩道も必要ない。赤信号で渡りだす人は「危険はないと自分で判断した」から「正しい」というだろう。しかし青信号まで待つのが集団の規範である。まず子供と老人などはつられて歩き出してしまいがちである。他人を危険に陥れる確率が高い。そうすると赤信号で歩きはじめる人は「悪」といて集団規範からは外れる行為である。してはならないのである。危機管理能力と集団規範とはずれる。
 この危機管理能力と集団規範とがずれるということは、人間ならではのことである。人間が動物と違う重大な側面である。人間を人間たらしめていることである。



横浜では雨が降り始めた

2014年08月10日 00時10分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜でも30分ほど前に雨が降り始めた。それなりに強い雨である。
 昼間の雨は止んだ後に気がついたので、雨の音を聞くのは久しぶりである。このくらいの降り方ならば聞いていて心地いいのだが、このままでは済みそうもない。台風の前触れなのだから。

 今急に強い降りになった。

 明日はおとなしく家にいた方がいいようである。トリエンナーレの記事を書かなくてはならない。