スキャナーを使った作業が出来ないので、すでにスキャンしていたいくつかの画像をひっぱり出してきた。
長谷川等伯の動物が面白いと思っていいくつか動物の部分を抜き取っていた。
まずは竹林猿猴図の猿の家族。雌猿が一頭の小猿を背に負い、遠くから雄猿が見ている図である。猿の牧谿の「観音猿鶴図」の猿に拠った図であるそうだ。確かに描き方はそっくりであるが、牧谿の猿が自然の一部として描かれているのではなく、等伯の絵は猿が主題、それも家族というひとかたまりとして主題になっていると多くの解説で指摘されている。私もそれ説を受け入れることにしよう。雄猿が父猿であるとして、この父猿と母猿の距離が微笑ましい距離である。これ以上近すぎてはくどくなる。遠すぎると関係の糸が切れてしまいそうになる。全体の絵の幅六曲の中で二曲と半分ほどの距離である。見守るという絶妙の距離を取っている。母猿は子猿に密着している。人間の父子・夫婦・母子関係を猿の社会にそのまま投影をしているのだが、この距離の取り方が桃山時代の当時の人間関係の反映であったと思われる。現代にそのままあてはまるかどうかは、見る人のそれぞれの判断である。
次が、松に鴉・柳に白鷺図の烏の一家。この絵は左双が白鷺の番だが、抱卵もしておらず雛もいない番を描いており、雌雄の距離は六曲の内五曲の距離がある。雄が雌を意識して遠くから近寄っている図である。これに対して右双はすでに雛がかえっている鴉の一家である。先の猿猴図からすれば距離がとても近い。これだけをとれば距離が近すぎでくどく感じるかもしれないが、左双の白鷺の雌雄と必然的に見比べるのでくどさ、嫌味を感じない。これまでこのように描かれることはなかったという鴉の一家の情愛を描いたということで、画期的な絵画と云われる。
この鴉の雛、3羽が個性を与えられている。餌をねだる1羽、くちばしを閉じて気ののつよそうな鋭い眼を外に向ける1羽、後ろ向きに何かを威嚇でもしているのか、外に対する興味が強そうな1羽。母親の鴉の表情・姿態が少し間が抜けているように思うが皆さんはどう思うだろうか。
私が一番好きなのは、次の竹虎図の雌雄の虎である。解説によれば、上(右双)が雄、下(左双)が雌。雄が雌に求愛しているポーズだということである。私もそれを前提に鑑賞した。これはなかなか剽軽である。人間でたとえれば雌の方がひょっとしたら身分が高い女性なのかもしれない。それゆえなかなか成就しない関係かもしれない。女性は男性に興味が無いのかもしれない。あるいはもったいぶって興味がなさそうな仕草をしてるだけかもしれない。見下しているのかもしれない。そんなドラマを見ているような図である。
両者の間に実は3本の竹があり、雌の虎の後ろには竹が4本立っている空間がある。これもまた微妙な両者の関係を暗示している。3本の竹のある距離、そして雌には退路がある。いつでも去っていく空間を確保しているのだ。雌からすれば3本の距離は近い。雄からすればとても遠い距離、というのは私の思い入れが過ぎるだろうか。
最後は涅槃図に描かれた動物たちの絵である。東京美術の「もっと知りたい」シリーズ「長谷川等伯」(黒田泰三著)に掲載されている涅槃図に描かれた動物を抜書きしたものを利用させてもらった。
解説では「動物の悲しみの優れた表現」とあるが、私の見方がまずいのだろうか。私には釈迦の死を嘆き悲しんでいるようには見えない。どの動物も寛いでいるように見える。釈迦の前で毒気を除かれ、平安を得たもののように思える。嘆き悲しんでこの世の生に執着している人間よりも静かに悟っているように見えて仕方がない。像や獅子、牛・駱駝・馬は明らかに泣いている。だが、猫・虎・鳥・ウサギ・狐・鹿は嘆いているかもしれないが感情は抑えている、泣いてはいない。私には泣いている動物よりもこの静かに事態を受け入れているように見える動物たちが好みである。等伯の心境かもしれない、と勝手に思っている。