東北大学資料館「魯迅記念展示室」の感想を書く前に、私の魯迅体験から。
少し長いが「藤野先生」からこの場面を引用してみる。
中国は弱国である。したがって中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑ったのは、無理なかったもしれない。だが私は、つづいて中国人の銃殺を参観する運命にめぐりあった。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになっていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦って勝っている場面ばかりであった。ところが、ひょっこり、中国人がそのなかにまじって現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕らえられて銃殺される場面であった。取り囲んで見物している群衆も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もした。
「万歳!」彼らは、みな手を拍って歓声をあげた。
この歓声、いつも一枚映すたびにあがったものだったが、私にとっては、このときの歓声は、特別に耳を制した。その後、中国へ帰ってからも、犯人の銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまって、酒に酔ったように喝采する-ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変わったのだ。
第二学年の終わりに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうであったが、ついに何も言い出さなかった。
「藤野先生」(1926年10月、岩波版魯迅選集、竹内好訳)
この幻燈事件は魯迅が医学をやめ、仙台という土地を離れるという決心をする重要な場面である。そして藤野先生のノートの添削と試験問題の漏洩を関連付ける料簡の狭い級友の振舞いや、このような場面を中国人の前で行う日本と日本人のあり様と、藤野先生の対比がこの小説の眼目でもある。それはアジアの「近代」のあり様と病理を浮き上がらせるものでもある。魯迅の回心の原点としてとらえられている。
私が初めてこの小説を読んだのは確か中学二年生の教科書に載っていたものである。ところが肝心のこの場面は割愛されていた。魯迅が医学をやめる理由が今ひとつ理解できないもどかしさを中学二年生ながら感じいてた。当時の国語の先生が割愛されているところをプリントで配布してくれた、と記憶している。そして私なりに合点がいった。国語の先生の説明が14歳の私なりに飲み込めたのだろう。
また「吶喊自序」では次のように記されている。
‥講義が一くぎりしてまだ時間にならないときなどには、教師は風景やニュースの画片を映して学生に見せ、それで余った時間をうめることもあった。時あたかも日露戦争の際なので、当然、戦争に関する画片が比較的多かった。私はこの教室の中で、いつも同級生たちの拍手と喝采とに調子を合わせなければならなかった。あるとき、私は突然画面の中で、多くの中国人と絶えて久しい面会をした。一人がまん中にしばられており、そのまわりにおおぜいたっている。どれも屈強な体格だが、表情は薄ぼんやりしている。説明によれば、しばられているのはロシア軍のスパイを働いたやつで、見せしめのために日本軍の手で首を斬られようとしているところであり、取りかこんでいるのは、その見せしめのお祭りさわぎを見物に来た連中とのことであった。
この学年がおわらぬうちに、私は東京へでてしまった。あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことではない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。されば、われわれの最初に成すべき任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。‥
「吶喊自序」(1922年12月、岩波版魯迅選集、竹内好訳)
この吶喊自序は藤野先生よりも4年前にかかれている。吶喊自序は魯迅の最初の小説集の序であり、魯迅の思想の出発点を探る上で大切な文章である。私はこの序を高校時代に読んだ。あの「藤野先生」を読んでから魯迅という作家が気になっていたのである。この吶喊自序は私は違和感があった。引用の後半の段落部分には抵抗があった。しかしそれは当時はよくわからなかった。
「吶喊自序」の後ろにはさらに魯迅には文学を始めるまでに紆余曲折・挫折の時期があって、「見知らぬ人々の間で叫んで相手に一向反応がない場合、‥あたかも涯(はて)しれぬ荒野に身をおいたように、手をどうしていいかわからぬのである。これは何と悲しいことであろう。そこで私は、自分の感じたものを寂漠と名づけた。‥この経験が私を反省させ、自分を見つめさせたからである。つまり私が、臂を振って一呼すれば応ずるもの雲の如しといった英雄ではないということである。」とも記されている。
こうしてみると、「吶喊自序」に従えば、仙台で医学を辞め文学を志したときの思いと、挫折して寂漠を経験したときの思いと、そして小説を実際に書き始めたとき、「吶喊自序」を書いた1922年、と魯迅の思想は少しずつ変化してきている。さらに4年後に「藤野先生」が書かれている。
「中国人という愚弱な国民」の「精神を改造する」という文学運動をこころざしてから、しかし国民は、笛吹けど踊らずという挫折を経て知識人の運動の限界を体験したうえで、「鉄の部屋に閉じ込められて窒息すると分かっていても熟睡している人を起こす」ことの「希望」にかけるに至る。
今の私の年齢になってみれば、若気の至りの血気盛んな思い入れから少しずつの変化が読み取れる。
そしてさらに「藤野先生」で扱われる幻燈事件を契機とした仙台の体験と、藤野先生という存在を前面に持ってきた構成では、中国にかぎらずアジアがこうむった「近代化」のいびつな構造そのものを射程にいれ、それを止揚しようとする思考・指向を私は読み取ることができると思っている。
「藤野先生」では現実の先生のあり様は別にして、アジアの近代化の中で「救い」としての人格者が藤野先生である。藤野先生というあり方にアジアの悲劇からの救いを見ているという解釈が成り立つ。そのすぐれた人格者とは声高な扇動者ではない。
やっかみで自分たちよりも「遅れている中国人」を蔑む日本人という名の「ちょっとだけ近代化を先に行った」人間にも、「遅れた中国人」と同じような付和雷同の人間が存在していることを見抜いている。
「藤野先生」を書くことで、魯迅という作家は「吶喊自序」執筆時の魯迅を超えて、「アジアの近代化」を射程に入れて考察する「世界性」を獲得したと私は思う。近代化によってもたらされるいびつな構造、社会のいびつな発展段階の解剖の端緒と成り得たのだと思う。だから魯迅は読み継がれるのである。言い方を変えれば、「藤野先生」に至るそれまでの小説だけでは魯迅は「先駆者」「扇動者」「目覚めた人」の作った警告の書で終わった可能性がある。
だが、付け加えるならば作品としての出来は、吶喊収録の作品など初期の作品の方が後期の作品よりも群を抜いて完成度は高い、と私は思える。作品の評価と、思想の深化と、影響力の拡大は、相関関係にはない。
さて私の学生時代(1970~1975)、仙台の川内の今の魯迅記念碑のあるあたりだったか、さらに奥の方だったか、白い木造の小さな洋館風の建物がひっそりと建っていて、そこに魯迅の遺品や仙台時代のことを展示してあった。この建物は確かに1970年から1974年までは存在していたと思う。私は2回ほど中に入り、また幾度かは前を通り過ぎた。ここの前を通って、荒巻という地名のところから川を渡って畑の中を登り、向山にある安アパートに帰ったことを覚えている。展示品までは記憶はしていないが、とても寒々しくて人が訪れている気配は感じられなかった。
私はながらくそれが魯迅記念館というものだと思っていた。今となってはそれが市の施設だったか、大学の施設だったかもわからない。今の仙台市博物館には魯迅の展示は無いので、大学の施設だったのかもしれないが、ネットで検索する限りこの施設のことはどこにも見当たらない。どなたかご存知の方がこの記事を見ていたら是非とも教えていただきたい。
1年生のときに初めてその建物を訪れた。冬の寒い雪の日の翌日であった。高校生の頃から親しんでいた魯迅の小説に惹かれて、一般教養の授業で魯迅の詩を解説した授業(確か講談社新書だったかが教科書であった)を選択した。200名も入る大教室での授業はしかしとてもざわついていて聞き取りにくい授業であった。何故か3回も出ているうちにつまらなくなって出席しなくなってしまった。年末になり冬支度が始まる頃には専攻の物理の授業にも、このような一般教養の講義にも興味は失せていた。来館者もいない建物で、展示している魯迅の遺物や記念品を眺め、とぼとぼと下宿にもどって独り物思いにふける時間がどんどん多くなっていた。不思議なことに1年生の後期の授業はおおむね順調に試験は及第したものの、政治的な活動の坩堝に吸い込まれる直前の一瞬の静寂の時期が私にはたしかにあった。
そして嵐のような2年が過ぎた1973年3月に岩波書店から13巻本の「魯迅選集」が店頭に並び始めた。毎月むさぼるようにこの選集を揃えた。当時の金額で1冊380円。学食で定食が75円~150円の時代。1日分の食事代は痛かった。
何かにすがるようにこの13巻を読んだ記憶がある。これを読むことは2年間の凝縮した時間を反芻し、消化する過程であったかもしれない。そして魯迅のように仙台から逃れ出ることを夢想していたのかもしれない。
この魯迅選集はボロボロになっているし、変色もしている。箱も日焼けしている。しかし手放すことができない。新しい訳も出ているらしい。だが、竹内好という訳者の思想も含めて、忘れることができない書物である。
私にとっては、魯迅の思想そのものはインテリの先駆性理論のようなもので、当時まだまだ影響力のあった毛沢東思想と並んで評価される時代でもあり、受け入れがたかった。しかも魯迅を政治的に祭り上げて利用する中国共産党という組織も信用ならなかった。しかしこのいびつな社会を前にたじろがない精神のあり様にはとても惹かれた。魯迅が東北大学の前身の仙台医学専門学校の一部の級友と当時の日本人の多くに、そして自国の民衆に幻滅したように、私は自分自身に幻滅して仙台を離れた。仙台にいるのがとても嫌だったことを覚えている。東北大学という組織がどうしても私には厭わしかった。
今、当時の魯迅を記念する建物はなくなり、魯迅の立派な像が立ち、階段教室がきれいに整備され、「魯迅記念展示室」が存在する。魯迅が中国という国家や中国共産党に政治的にどう評価されるか、それには私は興味はない。
しかし東北大学が「魯迅記念展示室」の展示でもしも魯迅をおとしこめることがあるとすれば、私はとても残念だと思う。当時の魯迅を取り巻いた日本人のあり様、大学のあり様はキチンと考えなおさないといけないと思う。これは次回に述べたい。