ヨコハマトリエンナーレ2014のメイン会場である横浜美術館には全体11のセクション(第1話から第11話)のうち7つのセクション(話)がある。それぞれが「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」のコンセプトに沿った位置づけに基づく展示が行われている。「忘却」というキーワードを頭の片隅に入れておくとわかりやすいと思えた。
イントロダクションとしてはこのトリエンナーレのモニュメンタルな作品が展示されているのだが、意表をつくように、力や欲望の象徴としてのモニュメンタルな要素を否定したアンモニュメントな作品を提示する。
以下、第1話「世界の中心に何がある?」、第2話「漂流する教室にであう」、第3話「華氏451は如何に芸術にあらわれたか」、第4話「たった独りで世界と格闘する重労働」、第5話「非人称の漂流」、第6話「おそるべき子供たちの独り芝居」、第7話「光にむかって消滅する」と続く。
この中で印象に残った作品を上げてみたい。
最初が美術館の外にデンと構える鉄製の「低床トレーラー」(ヴィム・デルボア、2,007)。解説によれば「精緻な工芸品に匹敵するほど装飾性の高い彫刻作品をてがける。全長15メートルの大型トレーラーをゴシック建築風に表現したもの。巨体なモニュメントとしての公共性を持つかに見えるが、むしろアンモニュメンタルな私的妄想の世界へと観客を導き入れる」とある。確かにゴシックの教会建築風に、鉄の素材を組み合わせたもので精巧で精緻なものである。鉄の赤錆がすでに浮き出ていて、モニュメントとしてよりも鉄にもかかわらず風化していく過程も作品の一部をなすように考えられている。
ただ私はなぜ「トレーラーでなければならないのか」という疑問を今も持っている。トレーラーとゴシック建築風の教会というのは意外性もあり、現在を象徴するものであるかもしれない。また教会の建築にあたっては現在ではどうしても必要な機械であるが、トレーラーが一般的な現代の象徴かと云えばその必然性はない。飛行機でも、クレーンでも宇宙線でもロケットでも現代を象徴できる。この「なぜ」が私には解けない。
次に印象に残ったのは、第1話にある「世界受信機」(イザ・ケンツケン、2011)。ラジオアンテナのようで大分古い形の触覚のようなアンテナであらゆる情報を貪欲に吸収し蓄える受信装置。しかもコンクリートという多分都市を象徴する物質が本体となっている。これは受けた情報がたまりにたまってコンクリート塊のように重くなってしまった文明人の身動きならない状態の暗喩でもあろう。この情報過多はアンテナのように1950年代から変わらぬ都市膨張と情報の膨化と、たまりにたまって活用されない情報を皮肉っているように見えた。
同時に情報を蓄えたからと言って、実際は沈黙、物言わぬ都市住民の意志の重みをこの重いコンクリート塊に象徴されてもいるのかと感じている。
しかし何か単純すぎる暗喩とも思える。もう少し何かが語られてしかるべきかもしれない。
第2話は釜ヶ崎芸術大学の取組みの展示である。釜ヶ崎という日雇い労働者の町に居を構えて、学び合う中での諸作品が展示されている。ひとつの芸術の試みの展示となっている。芸術活動というよりも芸術・芸能をよりどころとしての社会的実践という運動そのものの展示ということなのであろう。
第3話ではまず「ビッグ・タプル・クロス」に惹かれた。「ダブル・クロス」という語は裏切りを意味するそうだが、砲弾は戦争を、十字架は宗教を、象徴する。要するに宗教に名を借りた戦争という大きな裏切りを表しているとのことである。
レイ・ブラッドベリの「華氏451度」は市民が批評精神を失い戦争に突き進む社会を描いているが、そのようなメッセージが溢れている。この第3話は戦争という影が色濃く反映されたコーナーである。松本俊介が戦後子供に与えた手紙は感動ものであるが、同時に対照的に戦争遂行のための作品を書き戦後発表されることが無くなった、戦後も活躍した日本の詩人・小説家の戦中の無惨な作品が展示されている。
そして奈良原一高という写真家の北海道のトラピスト男子修道院の内部を撮影した「沈黙の園」と、和歌山の女子刑務所の中を取材した「壁の中」を並列して展示するとしいう実験を行っている。自ら進んでというのと、強制されてという違いがあるものの社会から隔絶され、社会から忘れられようとしている人間の無言のあり様が、人間に深くかかわる芸術のひとつの方向として提示されている。これ呈示はなかなか刺激的である。
第4話では、福岡道雄の「飛ばねばよかった」(1966)は有名な作品で以前にも目にしたことがある。解説では丸くて重く空中に浮かばないバルーンはため息の形と記載してある。私はてっきり涙の形だと思い込んでいた。人が浮かびバルーンが浮かばない、不条理な世界であるとともに、飛翔したくてもできない人間の手枷足枷となる社会関係に強いられて流された涙の重み、そんな鑑賞をしていた。しかしロープがたるんでいるということは、涙の重みで飛翔できない、ということからは解釈できないことに気が着いた。
丸いバルーンがため息であるとしたらどう解釈できるのだろうか。吐いたため息で自分が空に上がってしまう。ため息と自分が入れ替わってしまう。ため息にあらゆる諦念や疲労や吐き出されているとしたら、それは人間存在ものものの象徴に成りえる、ということなのであろうか。いろいろと思いをめぐらすことのできる作品であることは確かだ。
この第4話にはいままでのような社会に対するメッセージ性の強い、社会批評・時代批判のかたまりだった作品や展示とうって変わった、中平卓馬の1997年から1999年の作品が展示されている。社会性やメッセージ性のとても強い作品を発表してきた写真家の作品として展示されているのは、筍や石像、街中の猫や中華料理店の看板など、じっくりと対象を見据えて、被写体と向き合って出来上がった細部まで神経の行き届いた作品である。私は最近のこの写真家の作品をすでに見ているので、特に驚かなかったが、周囲の展示とは異質な世界を見せていて、とりわけ感慨深かかった。森村泰昌は逆に「世界は断片の集積であり、断片に統一性やヒエラルヒーを付与することを断じて許しはしない。世界の断片の声なき声になりかわり、相代弁しているかのようだ。世界の膨大な断片を相手にした、終わりのない格闘である」としている。そういう解釈の方が妥当であるのだろう。いづれにしろこの写真家の営為からは目が離せないと思った。
以上惹かれた作品を取り上げてみた。他にもいろいろ刺激を受けた作品、考えさせられた作品がいくつかあるが、美術館以外の会場の作品を目にした段階で、合わせておいおい記していきたい。