今回の展示では長谷川等伯の作品は2点が展示された。この絵は「松に鴉・柳に白鷺図屏風」である。実はこの屏風絵は、調査の結果長谷川等伯の印が消され、雪舟の偽署名が書かれていたらしい。江戸時代、等伯の名は忘れ去られ、当時人気の高かった雪舟の絵として保管されていらことがわかったといういわくつきのものである。一部改ざんがあるのかもしれない。
画面は薄い金が施されているがこれが画面全体に温かみをもたらしている。そして右双の右端に鴉の番と雛が描かれ、左双に番と思われる白鷺が画面を大きな空間に見立てて優雅に飛翔している。
鴉の巣を枝に載せている松も、白鷺が止まっている柳もともに幹や枝は画面の外に大きくはみ出し、木の全体は隠されている。そのことによって木の大きさがとてつもない大きさであることが想像される。
よく見ると白鷺の顔の表情は特に変な印象を受けないが、鴉の親子は顔の描き方がどうもあまりピンと来ない。ちょっと稚拙な感じがするのは私だけであろうか。
画面全体がちょっと寒々しい雪景色のような感じがするのに比して、この鴉の顔の稚拙さが、わざと狙った効果なのかはわからないが、何となく微笑ましい雰囲気をもたらしてくれるような気がする。解説では、当時は黒色の鳥として叭々鳥(ははちょう、ムクドリの一種で南アジアに生息、くちばしの上の羽のふくらみが特徴)を描いたらしいが、古来忌避される鴉を親しみのあるものとして描いたのが斬新とのことである。
鴉に比して白鷺の方は営巣はしておらず、雛もいない。2羽の距離が広い空間を表すとともに番以前の2羽の関係を暗示しているようにも思える。
中国の山水画と違ってクローズアップ効果で画面からはみ出す景物の描き方に、中国の山水画では味わえないダイナミックな風景画の極致なのではないか?
次の絵が私には忘れられない枚になりそうである。長谷川等伯の「波濤図屏風」である。等伯には「波次の絵が私には忘れられない枚になりそうである。長谷川等伯の「波濤図」はもう一枚あるそうで、京都の禅林寺にあるもので、確か昔これを東京国立博物館で見た記憶がある。このブログにも記載したはずである。禅林寺のものと比べると、右双はほとんど構図としては同じ、左双は禅林寺の方が岩が低くまったく違う絵である。
こちらの方が全体として丁寧に描かれているように見える。どちらかというと完成品に見える。色彩も鮮明である。禅林寺の方が荒々しいタッチだ。特徴ある波の形もこちらの方が顕著である。
禅林寺の方が荒々しくて好みだという人も多いと思う。こちらの方がまとまっていて少しおとなしい海に見えるかもしれない。
こちらの方の絵は私は初めて見たが、左右とも画面の上方4分の1くらいのところに細い黄色い線がある。雲のような金色のものとは違って横に伸びている。最初これが海と空の境界を示すものかと思っていた。よく見るとそうではないそうだ。しかしこれがあることで、海に広がりがあるように見える。
また波のうねりが禅林寺のものより強調されている。波全体は禅林寺の方が荒れているように見えるが、うねりはこちらの方が大きい。
岩礁はあまり荒々しさは無いが、硬い岩の質感が別のタッチでしっかりと書き込まれている。
禅林寺のものもこちらもともに雲海に浮ぶ高峰の峰々といってもおかしくない。これは画面の金色の輝きがもたらす錯覚かもしれない。
とてつもない広大な海原ないし雲海を見たような気がする。室内にあればそこが、室内であることを忘れてしまいそうな予感がする。
講座の「桃山絵画の四大巨匠」で来週は長谷川等伯を取り上げることになっている。楽しみである。
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