Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

今年初めて枇杷を食べた!

2014年06月12日 21時07分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 まだちょっと固めだったけど十分に甘くて、口当たりも良かった。毎年初めて食べる果物というのはとても嬉しい。そういえば先々週スイカを食べていた。
 しかし枇杷というのもとても思い出深い。枇杷とイチジクは庭でも、日当たりの悪い北側の庭でも簡単に実を付けてくれる。無論栽培して商品として出荷するのはとても大変な作業があるだろうし、それだから美味しく食べることができる。一方で、庭にそれこそ勝手になってくれている果物というのは嬉しい。枇杷やイチジクは柿やミカンや栗と並んで身近に取って食べることのできる果物であった。
 特に私の場合は、仙台で貧乏学生暮らしをしていた時、通学路の傍の一軒家の庭先になっている枇杷・イチジクはとてもありがたくいただいていた。(その節はご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした。)
 枇杷というのはその皮を見るととても上品な感じがする。小さな産毛が密生している皮は、手にとても優しい肌触りである。手のひらにすっぽりと収まる形も上品である。その皮もスルッと向けて嬉しい。皮を剥こうとすると実まで崩れてしまいかねない他の果物に比べて、触っているのが気持ちのいい果物である。こんな枇杷がとても好きである。

 さて、顎関節症といわれてからマウスピースを口に入れている。初めの内はそれを口の中に入れていることがつらかった。顎の周りの筋肉がこわばって辛かった。しかし最近は、マウスピースを外すとその顎の周りの筋肉が疲れるようになってきた。慣れというものはすごいものである。

 顎関節症は果物を気持ちよく食べることを許してくれない。小さな枇杷であっても大口を開けて豪快に食べることが出来ない。とてもさびしい。



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二代目高橋竹山「海をわたる女唄シリーズ(その1)」を聴く

2014年06月12日 11時49分05秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨晩聴いたばかりなので、まだうまく頭の中で整理できてはいないが、頭にうかんだことをまず記載してみる。
 第1部でじょんから、中じょんから節、新じょんから変奏曲を聴いた時は、ラジオ放送などで聴いたことのあるいわゆる津軽三味線と同様にすっとその音に吸い寄せられた。
 美しい撥を操る右手首と、棹を自在に移動する左手首と指の自在な動きだけが目に入ってくる。バイオリンを弾いていた私は左手の指の動きと右手の弓の動きはとても気になる。その動きが私にとってのリズムであり、音程であることは弾くのをやめて40年経っても変わっていない。
 撥にはじかれて鳴る音とリズム、左手の指が棹を移動する際の擦過音と、弦を指でたたいて出す音、どれもが複雑に絡み合っている。
 私は左手の指のせわしない回転するような動きが、うねりを与えられて、らせん状に空に向かって鋭く上昇していく空気の動きを感じた。西洋の楽器の演奏では感じられない感覚である。
 海北友松や曽我蕭白の雲龍図のように頭がぬっと大画面に迫る雲龍図ではなく、もっと自在に黒い空を駆け抜ける様を思い出した。狩野探幽のように小さい円の中に納まってしまう龍はさびしい。寺院の伽藍に彫られた広い空間が似合う龍が似合う音だと感じた。
 そんな飛躍しすぎかもしれない想像の世界にスッと入っていってしまう2代目高橋竹山の生の演奏が一瞬で気に入った。
 私には旧・中の区別はつかないが、「新」じゅんからの世界はとても懐かしく親しんだ東北の土俗の匂いがした。
 しかし「土俗」とは何なのだろう、とも思った。都会でしか生きたことのない私には「土俗」と云われる、東北の地域の共同体の暮らしは了解不能に近いかもしれない。同時に都会にしか住んでいなくてもそこにある都会にしかない「土俗」というものの概念があるかもしれない。
 現代の日本は、極端な東京一極集中である。この豪雨の渋谷の狭い地下空間に閉じ込められた音の世界が、ひょっとしたら現代の都市の「土俗」かもしれない。この「土俗」に私は閉じ込められてきたという表現ができるような気もする。
 ふと、色川大吉のいう「伏流水」というのはひっとして「土俗」と通底するものがあるのかもしれないとも思考が飛躍した。そんな勝手な飛翔・飛躍も許されていいだろうと思う。



 伝統の芸としての三味線が現代に住む人々と切り結ぶ仕方、現代に生きる演奏家がどう時代と向き合うか、このことを自覚的に追い求めることが、伝統芸が生き生きと時代に生き残り続けるかの大きな試金石であろう。
 2代目高橋竹山の試みは、アイルランドの現代詩人の詩とのコラボレーションを生み出したようだ。
 第2部での弥三郎節からこの「ファラオの娘」への転移には驚く。この転移のキーワードは「女唄」ということになる。この飛躍・転移がこの演奏家の魅力であることは十分理解できると思った。

 第1部でも第2部でも、ピアノの演奏とのコラボレーションも、思いもかけず違和感がなく私の頭の中に入ってきた。新鮮な気持ちで聴くことができた。
 洋楽の和声・音階と、日本の民謡の音階とリズム、これまでは交わることなく同時進行するなかで、何か不思議な共鳴を求めているものばかりを私は聴いてきた。それはそれで面白かったが、このように混然と一体的に聴くこともできるのかと感じた。もう少しこれが進化するとうれしい。

 2時間、とても良質な音の空間を体験できた。
 9月には再度行われるとのこと。大いに期待をしたい。




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