Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「祭りのあと」

2014年06月17日 23時52分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 「祭りのあと」 作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎

祭りのあとの淋しさが/いやでもやってくるのなら/祭りのあとの淋しさは
たとえば女でまぎらわし/もう帰ろう、もう帰ってしまおう/寝静まった街を抜けて
人を怨むも恥ずかしく/人をほめるも恥ずかしく/なんのために憎むのか/
なんの怨みで憎むのか/もう眠ろう、もう眠ってしまおう/臥待月の出るまでは
日々を慰安が吹き荒れて/帰ってゆける場所がない/日々を慰安が吹きぬけて/
死んでしまうに早すぎる/もう笑おう、もう笑ってしまおう/
昨日の夢は冗談だったんだと
祭りのあとの淋しさは/死んだ女にくれてやろう/祭りのあとの淋しさは
死んだ男にくれてやろう/もう怨むまい、もう怨むのはよそう/今宵の酒に酔いしれて
もう怨むまい、もう怨むのはよそう/今宵の酒に酔いしれて

 1972年7月発売のアルバム「元気です」所収の曲。「日々を慰安が吹きぬけて」は吉野弘の詩からの引用。
 1972年7月、私の暗いつらい時期の歌。どこからともなく流れるこの歌、当時は意識して聞いたことはない。5年も6年もしてから、「そんな歌もあったんだ」と思い出した歌である。
 1972年当時のことは、今はまだ語ることはできない。



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祭りのあと

2014年06月17日 20時38分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
   

 洲崎神社の記事を書いたら、写真がないとの指摘があった。昨日祭りの後の情景を撮ってみようと神社まで歩いてみたが、片づけはすでに日曜日の最終日の夜には終わっていた。早いものである。
 近くの商店街に辛うじてまだ提灯がぶら下がっていたのと、神社境内に片付けていないものが若干残っているだけであった。
 月曜日には仕事に出る方が多いので、片づけも日曜日に内に終えてしまうのであろう。なかなか手際がいいようである。
 私の住んでいる団地の隣の自治会でも焼き鳥・焼きそばなどの店を出していたが、あっという間に片付けていた。
 祭りという非日常から、日常に戻る場面の転換の素早さもまた祭りというものの持つ特性、あるいは魅力なのかもしれない。
 人々の意識の中に潜む非日常としての爆発的なエネルギーの発露は、このように瞬発的ともいえる短時間の表出で終わるからこそ魅力ある舞台なのであろう。これが長い時間の経過をたどるとすると、廃れるのも早いのかもしれない。祭りというもののひとつのあり様なのであろう。



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スポーツ刈り風

2014年06月17日 10時01分48秒 | 読書
 昨日、夏バージョンの頭髪にした。例年梅雨の間に髪を短くする。ここ20年近くの習慣である。いつもは左右と後ろは3ミリのバリカンで刈ってもらって、てっぺんは10センチ位を保っている。夏になるとてっぺんの一番長いところで2センチ位にしてもらう。一応スポーツ刈りに近い感じだ。大きく違うところはてっぺんの髪が薄いのと弱弱しいのでボリューム感がなくて髪が寝てしまう。情けない感じである。
 昔夏は暑いのでうんと短くしてほしい、と理髪店でお願いしたら、「短い方が厚く感じるんですよ」と云われた。なるほど確かにそのとおりだった。しかも汗が髪の毛にさえぎられずにそのまま滴り落ちてくる。
 それでも風が吹いたり、ジョギングをしているときの風が気持ちが良くて、恒例になってしまった。運動をした時に公園などの水場で簡単に水をかけて冷やすことも可能だ。すっかり気に入っている。そのかわり日よけの野球帽は運動しない時でも欠かせない。
髪をこのように短くしても、頭を洗う時のシャンプーの使用量は普段とあまり違いが無い。かえって多くなるような気がする。頭を洗う時間も長くなっている。
 なかなか泡立たないのは髪の毛が少なくなるためだが、理由はそれだけではなさそうだ。頭の皮膚の汚れがかえってひどくなるのではないか、と思われる。外気による汚れのほかに、汗の量が多くなる可能性、あるいは皮膚の新陳代謝・更新が活発になるのかもしれない。
登山に行って、沢の水で頭をぬぐうと実に気持ちがいい。これはたとえ少ない頭髪であっても少しでも髪が長いと味わえない爽快感である。





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