13日に初めて神奈川県立近代美術館葉山に出向いた。開催中の「立ちのぼる生命-宮崎進」展を見てきた。宮崎進という画家は初めてである。
1922年 2月 山口県徳山町(現周南市)に生まれる。
1939年 日本美術学校油絵科に入学。林武、猪熊弦一郎、三岸節子等に指導を受ける。
1942年12月 広島西部第二部隊入隊。
外地勤務を希望し、ソ満国境守備隊に配属。
1945年 8月 原隊が広島の原爆により消滅。
伝令中に守備隊が玉砕。ソ連軍により収容される。
12月 シベリアへ収容。
1949年12月 舞鶴に引揚げ。
1950年 広島・長崎訪問。
1951年 上京。北陸・東北・北海道放浪。
1959年 4月 光風会展に≪墨東≫出品。
1967年 ≪見世物芸人≫
1969年 香月泰男と交流
1972年 渡欧(11ヶ国を訪れる)
1974年 帰国
1976年 多摩美術大学講師。≪黄色い壁≫
1990年 シベリア捕虜収容所平和祈念展
1992年 多摩美術大学退職
2006年 広島市より「ヒロシマ」制作依頼
2007年 「鳥のように-シベリア 記憶の大地」(岩波書店)
2009年 「旅芸人の手帖」(岩波書店)
2014年 「立ちのぼる生命 宮崎進展」(神奈川県立近代美術館葉山)
「冬の旅」(新潮社)
私がブログでも取り上げた松田正平とも1984年に二人展を開催している。
宮崎進は以上のように92歳の今も長い創作活動を行っている。これには驚きである。
シベリアシリーズというと私などは香月泰男がまず頭に浮かぶ。詩人では石原吉男。この二人を通してシベリア抑留という重みを私なり受け止めてきた。
宮崎進はそのシベリア体験という重みと同時に「ヒロシマ」という事態もまた原隊が消滅するということを通して受け止めている。戦争・戦後体験から想像以上に大きな衝撃を受けているといえる。
画家の出発点はやはりシベリアの体験であるが、しかしそれが開花し作品として昇華するまでには1980年代後半以降のことのようである。戦後半世紀近い時間を経てようやく作品が出現する。
画家としての出発は戦後シベリア抑留から引揚げて二年後に上京しつつも、北陸、東北、北海道を放浪して書き上げた暗い油絵から始まる。しかし私はこれらの絵にとても惹かれた。
それは私が生まれた1951年の日本の北部の景色である。私が見た北海道の景色とは確かにこんな風景である。戦争とシベリア抑留という体験をした画家の見た列島の北の景色と、生まれて間もない私の記憶の北海道の景色とに差を感じない。あるいは私が青年以降に培った北海道・東北のイメージで記憶を潤色しているのかもしれないと疑ってみたが、そこは判然としない。
しかし暗く沈んだ街角の木造の家や商店の佇まい、冷たい風に乗って漂う魚の匂い、風に混じる馬糞の乾いた黄色い繊維は、やはりこのような景色である。背後の開放感のない空のくすんだ具合や、後ろの歪んだ家並や妙に傾いた木製の電柱も間違いなく私の記憶と重なっている。客観的な街のたたずまいが同一というのではない。私にはこの絵に込められた人の営みがとても懐かしく好ましく思えた。画家の街並みや人を見る目との共感に驚いた。旅人がふと風景が気に入ってさっと描けるような絵には見えない。そこに定住している人が描くような匂いや視点を獲得しているのではないだろうか。
シベリアの極限状況を体験した画家がどのような気分で、北陸・東北・北海道という北の土地を放浪したのであろうか。またどのようにこの土地の人々や風景と折り合いをつけたのであろうか。シベリア体験とこの「放浪」の持つ意味合い、画家の土地に対する溶け込み方、ここのところで私はとどまってしまっている。どうしても今は解けない。
「鳥のように シベリア 記憶の大地」と「旅芸人の手帖」とを読まないとこの疑問は解けないのかもしれない。
宮崎進はこの「墨東」(1959)を光風会に出品し入選している。画家としての第一歩のようだ。この絵も「灰色の街、釧路」と同様な描き方である。私はこの2年後に北海道の函館から川崎の下町に移っている。当時の墨東地区はこんな感じであったろうか。私はこの都市の風景に対して釧路の絵のような親近感がない。ちょっと違うように思う。もっとも小学校低学年の私と、生死の極限を体験した30代前半の画家とは比べものにならない感覚で都市に対しているのは承知をしたうえで云っているつもりだ。
この絵で画家はこの東京の風景に大きな違和感を感じているのだと思える。少なくともそこに溶け込もうとはしていない。私は特に疎外感はなく住んでいたが、画家はこの都会では異邦人であったのだろう。こんなにもくぐもって墨東を描いた画家は今のところ私は他に知らない。この都市からの疎外感が表現されている。
釧路の絵もこの絵も人が描かれていないが、この絵には人の匂いがしてこない。廃墟の街、人々が捨て去った砂漠に残った遺跡のような感じを受けてしまう。画家がそのような感覚で都会に対していたということは今の私にとっては、惹かれるものがある。
こちらの絵は1965年の「舟を曳く」。戦前のプロレタリア芸術運動の最中に描かれたような様式にも見えるが、そんなプロパガンダ性を感じない。東京の「墨東」とは違って人の温もりを感じる。東京オリンピックがおわり、日韓条約が締結された年、この年以降社会的にも政治的にも、日本でも世界でも反体制運動が盛り上がる時代である。そんな高度成長時代の労働には思えない前近代的な労働にも見える。あるいはそんな労働現場を描いているから人の温もりを感じる、というのではない。描こうとしている人に寄り添う気持ちが私には伝わってくる。こんなあまりに感覚的な感想は、鑑賞たりえないと思うが、こんな風にしか言えないのがもどかしい。私はミュージアムショップでバラバラとめくってみた「旅芸人の手帖」に描かれた絵、そこに登場する人物にに共通する要素をこの絵に嗅ぎ取っている。
この「祭りの子供」(1966)は日本の土俗的な習俗への下降意識、あるいは親和性を感じる。仮面や幣や三日月で「祭り」を象徴する手段は常套的ではあるが、構図の取り方、子供の位置の取り方など、極めて自然な配置でわざとらしさを感じないのがいい。
宮崎進という画家、戦後に画家として歩み始めたが、戦争やシベリアの極限的な体験を内に抱えたまま、本来的に持っている日本の土俗的な習俗や人々の暮らしへの親和的な指向に沿って画家としての表現を開始したように思う。
画家にとって画材や技法はとても大切なものであるが、何かを描くための手段としてのそれらは私にはわからないことばかりだが、表現したいもの、描きたいと思うこだわりについてならば私などにも作品を通して類推可能だ。
そして私がこだわりたいものは、シベリアや戦争や原爆というものが、ひとりの画家の表現意欲にどのように作用したか、また画家がどのようにこだわったのか、ということに注目してみたいと思う。そんなたいしたことは解明できないけれど、問題意識は持って絵を見てみたい。
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