Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「超高速!参勤交代」

2014年06月28日 22時48分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 本日は格安で手に入った切符で、「超高速!参勤交代」を妻と見てきた。
 本日は息抜きということで、楽しんで見ることに徹してみた。奇想天外なあらすじであるが、観る人に笑いのポイントは外さないようにしているようだ。
 ということで、いろいろあら捜しをしてもしょうがないので、そのままパンフレットを記載しておこうと思う。

 役者さんの顔を覚えるのはまったく苦手なので、どこかで見たことのある顔がいっぱいいたが、誰と誰がいた、などというのは私には理解できない世界なので勘弁していただきたい。
 今でいえば1万5千石というのはどのくらいの自治体なのだろう。面積で云えば今の横浜18区のうちの5区位だろうか。あるしは川崎市位の広さだろうか。人口はどのくらいか想定もつかない。
 弱い者いじめに対する抵抗、勧善懲悪、殺陣、義憤、ほんのちょっとした艶、実は最上位のものが味方、身分社会を超えた人の結合‥‥一応必要な材料は揃えられていた。
 殺陣はなかなか見ごたえはあったようだ。お国ことばはすべてがそうならば伝わらないからどの程度にするのか、というのは難しい問題であるが、この映画のお国ことばはかなり大胆に使っていたようだ。これは面白かった。

 それ以上のことは考えずに、桜木町駅の傍で食事をして帰ってきた。



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宮崎進「旅芸人の手帖」を読む(1)

2014年06月28日 13時13分08秒 | 読書
 「立ちのぼる生命-宮崎進」展(その1)で私は、宮崎進の<墨東>(1959)について次のように記載した。

 「私はこの都市の風景に対して釧路の絵のような親近感がない。ちょっと違うように思う。もっとも小学校低学年の私と、生死の極限を体験した30代前半の画家とは比べものにならない感覚で都市に対しているのは承知をしたうえで云っているつもりだ。」
 「この絵で画家はこの東京の風景に大きな違和感を感じているのだと思える。少なくともそこに溶け込もうとはしていない。私は特に疎外感はなく住んでいたが、画家はこの都会では異邦人であったのだろう。こんなにもくぐもって墨東を描いた画家は今のところ私は他に知らない。この都市からの疎外感が表現されている。」
 「釧路の絵もこの絵も人が描かれていないが、この絵には人の匂いがしてこない。廃墟の街、人々が捨て去った砂漠に残った遺跡のような感じを受けてしまう。画家がそのような感覚で都会に対していたということは今の私にとっては、惹かれるものがある。」

   

 「旅芸人の手帖」には、1960年頃の墨東風景の写真とともに次のように書かれている。
 「墨東といわれたこの一帯は、荒涼として何もなかった。棒杭のような電柱が見え、すえた匂いが鼻を衝くここには、点々と掘っ建て小屋があった。陽が落ち、赤提灯が灯ると人影が何処からともなく集まった来た。戦後の私にとって、隅田川に沿った一帯は、そこで出会った人々の中で、自分自身をつきつめる旅の始まりであった。‥日雇いの人、小屋掛けの芸人、役者くずれ、大道芸人やストリッパー、‥暗い裸電球の下で男たちが手の平の塩を舐め、酒を飲み、何処かへ消えていく。ここで出会う人々には肌で感じる温かさがあって、私は人間への限りない興味を持っていった。」
 そして14頁後ろには<石狩>(1958)という今回の展覧会に出品されている<網走>に似た絵が掲載され、次のように書かれている。
 「なぜだかわからないが、私はただただ渺々として何ひとつない北国のこの風景が好きだ。‥黒い烏が群れ、小石や枯れ草の続く荒れ地は道もなく、寄り添う家並や、風雪に歪んだ針のような木が、大地に張り付て生きる生きる人間の営みを思わせた。‥その頃、冬が来ると、私はたびたび北国に出かけた。‥ある時は、寄る辺ない旅人のようにさまよい歩いた。流氷の岸辺に、荒野にそよぐ草や木に、飛んで行く鳥にも、在る物が宿す命の様は眼に焼き付いてイメージを駆り立てた。」

 宮崎進という画家の出発点、原点を告白したような文章である。
 宮崎進は、北国の冬の景色にはとても親近感を感じ、イメージを駆り立てるものとしてとらえている。同時に墨東の地では、場末の景色以上にそこに生きる人々、とりわけ漂泊の人々との「肌で感じる温かさ」に寄り添うような親和性を示している。
 画家は、北辺の厳しい自然の北国を彷徨しながらその景色に親しみを抱くと同時に、墨東という都会の片隅に棲む人々に馴致し、そこに寄り添っている。

 私は絵のスタイルが同じような<釧路>に親近感を感じ、<墨東>には違和感を感じたのは、多分に私の北国への思い入れの強さがさせた結果だと思う。それはそれで私の勝手読みのそしりは免れないと思う。
 だが私は、<釧路>には厳しい自然のもとで定着する人々の息吹を感じたが、<墨東>に描かれた護岸のような巨大な構造物には、人々の生活が感じられなかった。
 しかし北国の基本的な生産に従事しながら定住し、そこに張り付く人々の生活の匂いを十分に嗅ぎ取るアプローチをこの画家は見せているのに、都会の底辺に寄り添う漂泊の、「執着するものもなく、失う何物もない」人々への親和性をより強く表明している。そして1970年代の末までかけて宮崎進は「旅芸人」の世界に寄り添う道を選択する。
 この世界を描写するこの画家の表現はとても魅力的である。

 シベリアという極寒の収容所という極限の体験は、日本の北辺の町への親和性をもたらすと同時に、帰還後には、市民社会への着地に苦慮し逡巡している人間の苦悩を感じ取りたい。多くの兵隊経験者が戦後の混乱の中で社会生活への復帰に支障を来したり、困難を抱える中、画家も漂泊者へ寄り添うことでその困難を自らの内に抱え込んでいたと思われる。全共闘世代の多くの経験者が、政治集団に属した者も属さなかった者も、区別なく体験したように‥。



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