昨日上野の国立西洋美術館で開催中の「カラヴァッジョ展-ルネサンスを超えた男」を見てきた。予想していたよりは人は少な目だったのでゆっくりと見ることが出来た。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)は日本でいえば織豊政権から徳川政権に時代が移る時期と重なる。九州3諸侯の少年使節の渡欧(1582-90)から伊達政宗による支倉常長のローマ派遣(1613-20)の直前に亡くなっている。日本と欧州キリスト教世界との直接接触の時期と重なる。ヨーロッパではイスパニアの極盛期からイングランドへ覇権が移る時期であり、プロテスタントとカトリックの対立が頂点に達した時代でもある。
そしてカラヴァッジョの名は、私たちには明暗を強調し、画面の人物が浮かび出るような効果を導入した画家という評価になっている。ルーベンスやラ・トゥール、レンブラントなどバロック時代の先行者として教わる画家である。
今回の展示、同時代の画家たちとの比較ができる。私は初めて名前を知り、作品を見た画家で心象に残ったのは、バルトロメオ・マンフレーディ、ヘリット・ファン・ホントホルスト、ジャコモ・マッサ、チゴリなどが挙げられる。
カラヴァッジョがこのような明暗を強調し主題を浮き上がらせる表現、劇的な人間の一瞬の表情、物語り性ないし時間軸をもたらす表現‥これらは同時代の中で獲得され、カラヴァッジョがその創始者、体現者として擬せられているのかと展示を見て思った。そして光源の明示(蝋燭や窓からの太陽光)などはカラヴァッジョ以降、1600年代前・中期に以降のジャコモ・マッサやラ・トゥールの擬せられているのかと感じた。
これはあくまでも私の感覚であるにとどまるが、そかもこれだけの展示でそのように結論付けるのは危険ではあるが、得てして新しい表現の発現はそのようなものではないのか。
さて図録は残念ながら購入しなかった。いつものとおり気に入った作品すべてのポストカードは無かったが、「エオマの晩餐」「法悦のマグダラのマリア」(共に1606)という晩年の作品のカードを購入した。
「エマオの晩餐」はキリストの復活後の情景ということであるが、解説ビデオによるともう少し若い頃の同じ題で同じような構図の作品があるらしい。そちらは右側の人が両手を大きく広げてこの作品より劇的な表現であったと記憶している。
私はこちらの方が物語り性をじっくりと味わえるようで好感が持てた。左手からの光線は落ち着きと安定感があるそうだが、光線の正面にいる右端の人物が暗すぎるが、それがキリストをより浮き上がらせている。
マグダラのマリアは発見が近年らしいことが、ビデオで紹介されていたと思う。この表情に当初は違和感があった。法悦と忘我とは違うというのが根拠である。しかし一方でマグダラのマリアそのものの位置付けも、その性格も、信仰の教義の厚いカーテンの向こうに隠れていて、私などには決定は出来ない。
カラヴァッジョはこの晩年に至りローマにもどる前段にどのような心境に至っていたのか、それとの関連でマグダラのマリアというカトリックならではの信仰にどのような人間性を見出したのだろうか。この時代マグダラのマリアは娼婦と結びつけられて官能的に描かれていたようである。
もう内容をすっかり忘れてしまったが、マグダラのマリア信仰の変遷を記述した「マグダラのマリア-エロスとアガペーの聖女-」(岡田温司、中公新書)を読んだことがある。カラヴァッジョ作品も多く取り上げていた。もう一度この書物をめくって見たくなった。この新書にはこの展覧会で展示されていたアルテミジア・ジェンティレスキの「改悛のマグダラのマリア」も紹介されていた。
ラ・トゥールの「聖トマス」と「煙草を吸う男」とともにとても惹かれた作品であった。残念ながらポストカードは無かった。