Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「生誕300年記念若冲展」のチラシを見て‥

2016年03月21日 20時15分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 最近の美術展のチラシの多くはとても良くできている。人を多く集める美術展ではA3二つ折りのものも多くなり、情報が豊富である。しかも著作権や貸出元との関係からも作品名もキチンと明記されているし、それなりの解説もついている。事前の予備知識を整理するのに便利な作りにもなっている。
 来月開催される伊藤若冲展のチラシをゲットしたと18日に記載したが、チラシの裏表を掲載してみる。私はこのチラシを見て、製作者の力量に脱帽している。展示作品の着目すべきところをキチンと踏まえているのだな、と思った。さまざまな作品から「これを見ると面白いよ」というところ赤枠・黄色枠の中にちゃんと収めている。虫・鳥・魚などの小さな生物、子犬などから鶏、そして虎や巨象まで、ここまで書き込んでいるチラシは珍しい。また彩色画だけでなく、水墨画の魅力にも触れている。当然ではあるが、ちゃんと作品名も記している。その配置にも気配りとセンスを感じている。なかなか心憎いものがある。

 私は実はこの派手な黄や赤に囲まれた動植綵絵の鶏や白鳳を見て、若冲という画家の彩色の中でも赤に着目して鑑賞してみようという気になった。裏面を見ても他の動植綵絵にちりばめられた赤という色の効果的な配置に興味をそそられた。同時に展示される釈迦三尊像も赤がとても目立つ。こんなに派手で効果的な赤を使った絵画は、若冲以外にあったかなとあらためて考えて見たくなった。私の江戸絵画の知識は貧弱なので、そんなことも知らなかったのか、と当然云われるだろうが、無手勝流で見てきた私には新鮮な驚きである。そんなことを教えてくれたチラシであると思った。
 チラシの高価というのは大きいものである。若冲展が楽しみとなった。


ショパン「ピアノ協奏曲第1番」(ツィマーマン)

2016年03月21日 13時21分43秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日に続いてショパンのピアノ協奏曲第1番を聴いている。演奏者はピアノと指揮がクリスティアン・ツィマーマン、オーケストラはポーランド祝祭管弦楽団で1999年の録音。ポーランド祝祭管弦楽団というのは、ツィマーマンがピアノソロと指揮者を兼ねて演奏するために編成された若いソリストや室内楽奏者からなるオーケストラ、とCDに添付された解説に記載がある。ツィマーマンは1956年ポーランド生まれのピアニスト。ピアノや演奏会場の音響効果、録音技術に対するこだわりは有名で、日本でも熱烈なファンを獲得していることは私も耳にしている。同時にポーランドでの戒厳令に対する抗議の亡命、アメリカのジョージ・ブッシュ大統領の東欧政策への抗議などでも名を馳せている。
 この政治的な運動には興味はそそられ、惹かれるものが大いにあったが、それと演奏の質とはイコールにはならないというのが私のいつもの判断なので、これらの行動をきっかけにCDをあえて購入するということはしていない。また当時はまだピアノという楽器には特に惹かれていもいなかった。実はこのCDを2000年頃に購入している。購入時に一度は聴いたと思うがそれ以降は聴いていない。手軽に一枚で二つの協奏曲を聴くことのできる昨日のエマニュエル・アックス盤を何回か聴いていただけである。
 昨日の夜中に音を小さくして聴いてみて、ビックリした。ピアノについては私は、曲や演奏家の差を聴き分ける力量は今でもピアノを習った方と比べて格段に劣るものと思っているが、このツィマーマン、出だしのフレーズを聴いただけで、アックス盤とはまったく違う印象に驚いた。ピアノのメロディーラインが明確に浮き出てくる。ずっと優雅で音に厚みがあり、丁寧な演奏ということを感じた。なるほどこれは「完璧」にこだわる演奏家の演奏なのかと思える。ファンが多いということに納得した。悪く言えば隙が無さすぎるという不満があるかもしれない。
 昨日オーケストレーションに単調さがあり、ショパンのオリジナリティではなく他のオーケストレーションの専門家の手になるらしいということを引用させてもらったが、そのようなことを感じさせない録音でもある。
 ベートーベンやブラームスなどでは確かにピアノとオーケストラの競い合う感じであり、ショパンのピアノ協奏曲はピアノが主でオーケストラは伴奏に近いといわれる。それでも私の耳にはピアノとオーケストラはいいバランスで聴こえる。
 再現部で静かに奏でられる主題の美しさに引き込まれるものがある。19歳というショパンの青年期の感情がたっぷりと詰められ、下手をすると演奏が甘い感傷に撒け、テンポが大きく揺れてしまいそうになりながら、厳格な拍子を確保することで踏みとどまっている印象を受けた。テンポの変化の代わりに強弱の差を大きくし、旋律と伴奏の差を明確にして曲の流れをコントロールしていると思える。
 第2楽章はアックスが10分を切っているが、ツィマーマンは実に12分35秒もかけている。テンポがゆったりしている。ここではオーケストラとピアノソロとの美しい絡み合いが存分に聴くことが出来る。そして第3楽章に流れていく直前の2分間の緊張感の持続は、ソロピアノも弦楽器もともに、高度な技術よりも強い精神力が必要かと思われる。
 フィナーレは再びピアノが大きなリードを占めている。第2楽章の緊張感を受けるフィナーレにしては出だしが少し重みに欠けるなというのが、この曲を初めて聴いた時からの感想である。最後に行くにしたがっての盛り上がりはなかなか楽しい。
 第2楽章を独立で演奏することもあると聞いているが、このフィナーレも独立性が高いのではないか、というのは素人の私だけだろうか?

      

爽やかな付き合いと爽やかな別れ

2016年03月21日 00時01分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は横浜駅近くのスーパーまで買い物に付き合った。しかし年度末の3連休のためか、多くの人出があった。レジもいつも以上に並んでいたらしい。地下街もいつもよりは大勢の人が行き来していたと思う。
 これだけ大勢の人がいる中で、あるいは大勢の人が出ていたからだろうか、2時間ほどの間に3人もの昔の職場の人に出会った。いづれも男性。3人とも仕事を一生懸命こなして職場ではとても仲良くしてもらった。3人とも5年前後で異動したが、印象に残っている後輩と先輩である。
 1人とはお互いにすれ違いざまに気がついて、同時に振り返って会釈をしただけだったが、目がやさしかった。咄嗟に名前が出てこなかったが、買い物をしているうちに思い出した。同じ局の他の職場に移動したので、さらに5年ほどは仕事でも時々顔を合わせたり、仕事の報告などをしたことがある。
 他の2人とは、立ちどまって「お元気ですか」「まだ再任用で働いています」「もう退職して遊んでます」程度の短い会話を交わして別れた。やはり5~6年ほど一緒に仕事をした。2~3歳年上であるので、もうとうに退職をしているはずである。
 3人とも1人で颯爽と歩いていた。3人とも年賀状のやり取りをしているわけでもないし、連絡先を知っているわけでもない。下手をするとこの先もう合うこともないかもしれないけれども、特に名刺交換をすることも、連絡先を聞くこともなかった。
 何万人もいる職員の奏で5年前後も同じ職場の空気を吸っていた人たちである。寂しいといえば寂しい。しかし何万人もいる職員の中で、それぞれに付き合う範囲もあり、40年前後の勤務年数の内5年ほどの付き合いは、特に長い方ではない。爽やかな付き合いと、さわやかな別れ方があってもいいだろうと、割り切っている。
 

ショパン「ピアノ協奏曲第1番」

2016年03月20日 18時06分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 第1番とあるが、実際は2番目に作られている。最初に書きあげたヘ短調協奏曲(第2番)を1830年3月にワルシャワでのプロデビュー演奏会で初演したのちに作曲に取り掛かった。そして同年の10月、ウィーンへ出発する直前に行われたワルシャワでの告別演奏会においてショパン自身のピアノ独奏により初演された。
 ふたつのピアノ協奏曲は19歳という若いショパンのデビュー作とも云われる。そして双子のような曲でもある。
 親しみやすい曲想であり、多くのファンがいる。

 ピアノに対してオーケストレーションに単調さがあると云われているようだ。第2番も同様に他人のオーケストレーションの可能性が高いということになっている。一方で、第2楽章に弦に弱音器を付けたりするところなどは、ショパン独自のオーケストレーションを試みた形跡もあるとのことである。
 このオーケストラの厚みがないということは、ヴィルトゥオーゾの傾向に随ったピアノ主導の曲であるのか、ショパンのピアノソロ重視の方向なのか、病弱のショパンにとって作曲上の困難の結果だったのか、さまざまな解釈もあるようだ。
 若いショパンが意図したと思われるオーケストレーションを復元した「コンサート・バージョン」と、従来の楽譜を校訂した「ヒストリカル・バージョン」があるともいうが、このCDの演奏がどちらなのかは記載はない。。

 演奏者はエマニュエル・アックスのピアノ、ユージン・オーマンディー指揮、フィラデルフィア管弦楽団による1982年の録音である。



 実はもう一種類ショパンのピアノ協奏曲を持っている。クリスティアン・ツィマーマンのピアノと指揮、ポーランド祝祭管弦楽団による1999年の録音盤である。こちらはCD2枚組である。聴くときはいつも2曲まとめて聴きたいので、こちらを聴いたのは2000年頃に購入した時に一度だけのような気がする。本当はじっくりと聴き比べた方がいいと思う。
 明日はこちらを聴いてみることにする。

日比谷公園沿いにはコブシの花

2016年03月20日 13時45分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
   

 昨日は「戦争法廃止・安倍政権の暴走許さない3.19総がかり日比谷大集会」の集会に参加し、東京駅近くまでデモ。
 雨は横浜より弱かったようで、最初はポンチョを被っていたけれど、13時過ぎにはほぼ止んだ。デモに出る直前に再び少しだけパラついたが、合羽を着ることもなくそのままデモに参加した。
 デモに出る直前公園の入口のソメイヨシノが一枝分だが、開花しているのに気がついた。公園沿いの街路樹はコブシの花が見事に咲いていた。

 15時30分という早い時間から新橋駅傍のガード下でだいぶ飲んで、夜になってから帰宅した。

 本日は朝から退職者会の明後日の幹事会でのメール作業のためのいくつかの作業をこなした。バックで聴いている曲はショパンのピアノ協奏曲第1番。

集会とデモのあとは・・・

2016年03月19日 22時43分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
全体で5600人の集会とデモ、私たちの組合の退職者会の参加者は14名であった。
集会とデモが終わってから現役の組合員2名を誘って10名で新橋駅近くのガード下で4時間以上過ごした。
集会とデモの時間よりも長い時間であった。これが元気のもととはいえ、賑やかなこと、少々恥ずかしいものがある。
ガード下は昔は安さを求めてサラリーマンが大勢押し寄せた。今も変わらないが、外国人観光客が大勢やって来ている。他国を訪れて居酒屋をのぞくというのは、我々日本人も得意技でもある。違和感無く互いに楽しめるというのは楽しい。言葉を交わさなくても、そのような雰囲気を楽しめるというのが良いと思う。

明日は予定がない。休養日ということにしたい。

横浜は大雨・洪水・強風・雷注意報

2016年03月19日 11時09分49秒 | 天気と自然災害
こんな日に東京の屋外集会というのも辛いものがある。
印象に残る集会と思えばいいのかな、ということで、内科経由で横浜駅にたどり着いた。
今日は10人位の参加と思われる。
帰りはどうなるか、決まってはいない。
妻には夕食は家では食べないと伝えている。

「生誕300年記念若冲展」(東京都美術館)のチラシをゲット

2016年03月18日 23時24分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日東京都美術館に行ったとき、「生誕300年記念若冲展」のチラシを手に入れた。A3を二つ折りで、真っ赤な枠に白を基調とした動植綵絵の「老松白鳳図」が真ん中に配置している。また白象が右下にあしらってい。反対側の面には黄色い枠に同じく動植綵絵の「群鶏図」をしゃあしらっている。とても派手なチラシである。
 会期が4月22日から5月24日と約一か月しかない。チラシによると釈迦三尊像、そして動植綵絵全30幅など全体で80作が展示されるらしい。水墨画では「果蔬涅槃図」も再び展示されるとのこと。
 連休もあり、短い日程ではかなりの混雑が予想される。行きたいのはやまやまだが、あまりの混雑の中に入っては行きたくない。悩みどころである。




明日は雨の予想だが、日比谷野外音楽堂へ

2016年03月18日 20時39分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は講座の予定も、出かける予定もないのでのんびりできるかと考えていた。しかし朝から拙い「カラヴァッジョ展」の感想の記事を綴った後、緑内障の目薬が月曜日には無くなりそうなことに気がついた。連休のため本日中にいつもの眼下に行かなければならないことに気がついた。さらに明日19日と26日の東京での集会に向けて参加者名簿の作成やら、退職者会の会報等のメール作業を行う22日に向けた準備などをしなくてはいけないことにも気がついた。
 ということで、15時過ぎまでパソコン前に張り付いて作業をこなしてから、眼科へ。ついでに携帯電話の不具合などを再度見てもらうために横浜駅まで歩いて行った。その結果、どうやらメールの自動受信の不具合は解消することが出来たようである。
 さらにデータ通信量が契約上限を超えるようになってきたので、料金プランの見直しを依頼して、若干の変更を行った。データ分の比重を重くし、通話分については軽くした。1回の通話時間はどう考えても5分を超えることなど皆無である。だいたいは60秒以内で済む。30秒以内が大半である。これらを組み合わせて若干のマイナスになるらしい。
 そんな用事を済ませて帰宅したのが19時。それなりに時間がかかってしまった。

 さて明日は天気予報では雨のマークがついているが、日比谷野外音楽堂まで出かけなければならない。残念ながら天気予報は横浜よりも東京の方が雨の降る確率は高いようである。横浜では午後は雨が上がるようだが、東京は夕方まで降り続く予想になっている。最高気温は16~18℃ほどらしい。


「カラヴァッジョ展」(国立西洋美術館)

2016年03月18日 14時21分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨日上野の国立西洋美術館で開催中の「カラヴァッジョ展-ルネサンスを超えた男」を見てきた。予想していたよりは人は少な目だったのでゆっくりと見ることが出来た。
 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)は日本でいえば織豊政権から徳川政権に時代が移る時期と重なる。九州3諸侯の少年使節の渡欧(1582-90)から伊達政宗による支倉常長のローマ派遣(1613-20)の直前に亡くなっている。日本と欧州キリスト教世界との直接接触の時期と重なる。ヨーロッパではイスパニアの極盛期からイングランドへ覇権が移る時期であり、プロテスタントとカトリックの対立が頂点に達した時代でもある。
 そしてカラヴァッジョの名は、私たちには明暗を強調し、画面の人物が浮かび出るような効果を導入した画家という評価になっている。ルーベンスやラ・トゥール、レンブラントなどバロック時代の先行者として教わる画家である。
 今回の展示、同時代の画家たちとの比較ができる。私は初めて名前を知り、作品を見た画家で心象に残ったのは、バルトロメオ・マンフレーディ、ヘリット・ファン・ホントホルスト、ジャコモ・マッサ、チゴリなどが挙げられる。
 カラヴァッジョがこのような明暗を強調し主題を浮き上がらせる表現、劇的な人間の一瞬の表情、物語り性ないし時間軸をもたらす表現‥これらは同時代の中で獲得され、カラヴァッジョがその創始者、体現者として擬せられているのかと展示を見て思った。そして光源の明示(蝋燭や窓からの太陽光)などはカラヴァッジョ以降、1600年代前・中期に以降のジャコモ・マッサやラ・トゥールの擬せられているのかと感じた。
 これはあくまでも私の感覚であるにとどまるが、そかもこれだけの展示でそのように結論付けるのは危険ではあるが、得てして新しい表現の発現はそのようなものではないのか。
 さて図録は残念ながら購入しなかった。いつものとおり気に入った作品すべてのポストカードは無かったが、「エオマの晩餐」「法悦のマグダラのマリア」(共に1606)という晩年の作品のカードを購入した。



 「エマオの晩餐」はキリストの復活後の情景ということであるが、解説ビデオによるともう少し若い頃の同じ題で同じような構図の作品があるらしい。そちらは右側の人が両手を大きく広げてこの作品より劇的な表現であったと記憶している。
 私はこちらの方が物語り性をじっくりと味わえるようで好感が持てた。左手からの光線は落ち着きと安定感があるそうだが、光線の正面にいる右端の人物が暗すぎるが、それがキリストをより浮き上がらせている。



 マグダラのマリアは発見が近年らしいことが、ビデオで紹介されていたと思う。この表情に当初は違和感があった。法悦と忘我とは違うというのが根拠である。しかし一方でマグダラのマリアそのものの位置付けも、その性格も、信仰の教義の厚いカーテンの向こうに隠れていて、私などには決定は出来ない。
カラヴァッジョはこの晩年に至りローマにもどる前段にどのような心境に至っていたのか、それとの関連でマグダラのマリアというカトリックならではの信仰にどのような人間性を見出したのだろうか。この時代マグダラのマリアは娼婦と結びつけられて官能的に描かれていたようである。
 もう内容をすっかり忘れてしまったが、マグダラのマリア信仰の変遷を記述した「マグダラのマリア-エロスとアガペーの聖女-」(岡田温司、中公新書)を読んだことがある。カラヴァッジョ作品も多く取り上げていた。もう一度この書物をめくって見たくなった。この新書にはこの展覧会で展示されていたアルテミジア・ジェンティレスキの「改悛のマグダラのマリア」も紹介されていた。
 ラ・トゥールの「聖トマス」と「煙草を吸う男」とともにとても惹かれた作品であった。残念ながらポストカードは無かった。

   


草臥れた1日

2016年03月17日 23時38分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は講座と美術館巡り。美術漬けの1日だったような気がする。それでも約1万3000歩あまり。ふたつ目の国立西洋美術館を出た時は足が棒のようになっていた。歩くよりも筋肉に負担がかかっているようだ。
 時間的にはさらに東京駅のステーションギャラリーにでも行ってみようかと当初は考えていたが、体力的にも、頭の柔軟性の点でも、そして金銭的にもとても無理であった。
 上野駅で買ったビールがとても美味しく感じられた。

 明日の予定は入っていない。年度末で講座も少なくなっていて、学生の春休みのようなものである。

ショパン「ピアノソナタ第3番」(アシュケナージ)

2016年03月17日 21時50分45秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 先日のピアノソナタ第2番と同じCDに収録されている。作品58である。やはり第2番と同様ジョルジュ・サンドと一緒に住んでいた頃の曲である。第2番の頃よりも落ち着いた生活だったかもしれない。私はいかにもショパンらしい独創的な曲のような気がして第2番の方を聴くことが多い。しかしこの第3番も好きである。特に第3楽章、第4楽章が私の好みである。
 好みの根拠は未だによくわからないのだが、いろいろな解説を読むと「古典的」という指摘がある。構成上も主題の処理も調整も古典的ということである。華やかさには欠けるという指摘については私も同感である。
 同時に収録されている曲に「幻想曲」作品49がある。どこかで必ず聴いたことのある曲である。
 録音は1975年から81年にかけて行われている。

      

「ボッティチェリ展」と「カラヴァッジョ展」をはしご

2016年03月17日 20時07分05秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日の午前中は、「くらべて楽しむ美術鑑賞」の第3回目「アメリカと日本の抽象表現-20世紀」(講師:中村宏美氏)を聴いたのち、そのまま上野駅まで直行。



 まずは東京都美術館で「ボッティチェリ展」、その足ですぐに国立西洋美術館に行き「カラヴァッジョ展」に行った。「ボッティチェリ展」はチケットショップで前売り券を昨日購入した。
 ボッティチェリ展は会期が4月3日までということで、木曜日の昼にも関わらずかなりの混雑。残念ながらじっくりと見るような状況ではなかった。しかし「カラヴァッジョ展より先に見た方がいい」という葦原の山姥様のご指摘のとおり、癒される作品が並んでいたことは確かである。展示作品は、ボッティチェリ展とは云いながらフィッポ・リッピ、フィリッピーノ・リッピの作品も多数並んでいる。リッピ父子の作品もまた私は注目しているので、嬉しかった。私なら「ボッティチェリとリッピ父子の同時代を探る」とでも副題をつけたいが、これでは一般的には受けないかもしれない。「書物の聖母」(1482-83)、「美しきシモネッタの肖像」(1480-85)、「女性の肖像(美しきシモネッタ)」(1485-90)の三枚のポストカードと図録2400円を購入。「書物の聖母」の保存状態の良好さ、丁寧な描き方に驚いた。



 「カラヴァッジョ展」は横浜のチケットショップでは扱っていなかった。それほどの混雑ではなくゆっくりと見ることが出来た。こちらもカラヴァッジョの作品は11点で、やはり同時代展ともいうべき展示。しかしこれも特に問題にはならないと思う。同時代のいい作品が並んでいて勉強になったと思う。
 しかし図録が2800円と聞いて思わず腰が引けてしまった。2400円と2800円との差はそれほどでもないが、やはり3000円に近くなると高いと思ってしまう。図版である以上やむを得ないものもあるだろうが、今回は残念ながら購入は断念。ポストカードは「エマオの晩餐」(1606)と「法悦のマグダラのマリア」(1606)を購入した。
本当は同時に展示されていたラ・トゥールの「聖トマス」(1615-24)のポストカードが欲しかったのだが、残念ながら販売していなかった。図録の見本をめくってみたが、この作品は図録にも収録されていなかったようだ。詳細に見たわけではないので見落としたかもしれない。
 この時点ですっかり疲れてしまった。しかもボッティチェリ展の図録が重く肩にのしかかっていたので、2冊購入していたら途中でダウンしたかもしれない。上野駅の周辺でビールでも飲もうとしたが、結局缶ビール1本を購入して、横浜行の電車の4人ボックスに乗って帰宅した。

 両展覧会の感想はいつものとおりまとまり次第アップする予定。

久しぶりにウォーキングで汗をかく

2016年03月16日 22時47分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は12時から14時まで正味1時間50分歩いて約1万5千歩、10キロほどのウォーキング。かなり汗をかいて気持ちのいい運動が出来た。曇りで陽射しが少ししかなかったものの風が無く暖かく感じた。いつもよりは少ない歩数であったが、スピードはそれなりに出ていたと思う。腰の具合も異常はなくて、ホッとした。
 自宅でシャワーとコーヒータイムののち、15時から横浜美術館を往復した。往路は電車を使い、帰路は歩いた。往復1万歩ほど。19時近くに家に着いた時はそれなりに汗ばんでいた。

 横浜美術館の今年度のコレクション展は3回目である。3回とも共通して「いいな」と思う作品と、行くたびに新しい発見と、いづれもそれなりに楽しい。前回ほど感動はしなかった、という経験はあるが、気に入った作品が次の時に気に入らなくなる、ということは経験はしていない。
 以前に気に入った作品に対するときは、「前回はここが気に入ったけれど、今回はどこが気に入るだろう」ということを思いながら作品を見つめるようにしている。そうすると、新しい発見をしようということに意識が集中して、前回気に入ったことについてはあまり意識は向いていかない。それが「気に入らない作品の仲間入りにしよう」ということに繋がらない原因かもしれない。新しい発見が無ければそのまま次の作品の前に移動してしまう。あまりひとつの作品にこだわって見ていると全体を見渡せなくなるからだ。

 明日は朝10時から2時間の講座がある。今日のように寝坊はしていられない。

横浜美術館でコレクション展など

2016年03月16日 21時45分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は横浜美術館に行ってきた。すでに見ている「村上隆のスーパーフラットコレクション」展と、「横浜美術館コレクション展2015年度第3期」を再度目にしてきた。

      

 「村上隆の‥」では、展示の最後のコーナーにあったアンセルム・ライラの2007、2009、2006年作のいづれも「無題」という作品。
 大胆な色も面白いが、無秩序な紋様なようでいて不思議な緊密性を感じる。計算されつくされた紋様ないし形だと思った。いつまでも眺めていたい衝動が湧いてきた。こんな気分は最近の彫刻作品では初めて味わう気分であった。
 作られた年はそれぞれ違うが、展示されているのと同じ並び方が私は一番気に入った。左から緑、赤、銅の色合いも惹かれた。



 コレクション展では、ジョルジュ・ブラックの「画架」(1938)がまず今回は印象に残った。私の好きな画家のひとりであるジョルジュ・ブラック。1882年に生まれ、1963年に亡くなったブラックにとってはこの年は50歳。このころの特徴を備えたブラックならではの作品ということである。私は鮮明で明確な色彩の面、色の対比へのこだわりなど感じる。
 茶色の不思議な形、椅子の木目の不思議な魅力、背景の黒に描かれたグレーノ紋様、パレットに残る不思議な形、瓶にいけられた紫色の植物の冷たい色合い、槍のように天地を貫く棒のような黒く強い線。どれもが見ていて飽きない。

   

 マックス・エルンスト「子供のミネルヴァ」(1956)、ギュスタープ・モロー「岩の上の女神」(1890)も大いに目をひいた。
 二人共まだ語る知識もない。作品を見て大いに心を動かされたことは残念ながら記憶には無いが、しかしいつも引っ掛っている画家である。いづれ語れるように多くの作品に接して勉強したいと思っている。特にモローはジョルジュ・ルオーの師でもあり、興味を惹かれる。