Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

佗助(わびすけ)

2016年03月16日 11時45分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 最近はブログにアップする文章を午前中に書いてから、講座を聴きに出かけたり、美術館・博物館に出かけたりしている。この午前中の文章がサブメインの記事である。CDの感想であったり、絵の感想であったりのパターンになっている。夕方から夕食後にかけて、講座の感想だったり、美術展の感想だったりする。これが一応メインである。最後に22時過ぎに日録風に記事を書いている。
 本日はかなり朝寝坊をした。記事を書くエネルギーも湧いてこなかった。

 3月も中旬になって、風邪もやっとのことで治り、腰痛もおさまり、これまでよりは多少暖かくなったので、久しぶりにウォーキングに出かけようと思っている。急にあまり長く、早く歩いてもまずいので、2時間未満のコースを想定していつもの道を歩いてみたい。
 と思っているうちに雲が出てきて、陽射しが隠れてしまった。天気予報どおり。



 「時には本の話でも‥」に白い佗助の写真が掲載されていた。思わず次のようなコメントを書かせてもらった。


 佗助というと、「「もうひと花を‥」という執着心が湧いたら、それは前の花よりももう一回りも二回りも、さらにもっと小さく控え目なものを考えた方がいい。その方が深みがある」という趣旨のことを国語の先生が云っていたと記憶しています。ミッションスクールでしたが、言っていることは(日本的)仏教観の世界ですね。

佗助のいまひとたびのさかりかな  中村若沙


 ここで「国語の先生」とは、確かもう亡くなった先生だったと記憶しているが、自信はない。別の先生だったかもしれない。直接聞いた授業の時はそのまま受け流していたようだが、大学生の時、なんのきっかけだったか、ふと頭に浮かんできた。言葉の趣旨は鮮明に思い出したが、どんな教材の時だったか、何年生の時だったか思い出せない。そのもどかしさとともに未だに記憶している。直接聞いた時からの記憶ではなく、ふと思い出した時からの記憶である。ひょっとしたら直接聞いたことは無かったのかもしれない。そんないい加減な記憶だが、未だにこの言葉は頭に残っている。
 記憶とは不思議なものである。
 そして「佗助のいまひとたびのさかりかな」の句はたまたまこの記憶に沿った句であることに気がついたのはいつのことだったか。数年前に歳時記をめくっていて気がついた。侘助は侘助とも書く。私は「佗助」という字が理由はないが好きである。

 佗助の花と椿は違うのだが、見た目にはわからないのでネットで検索した結果をまとめると、佗助の特徴としては、
1.花は一般に小さく、一重・猪口咲きのものが多い。
2.雄しべが花粉を生じず、同時に雌しべも結実しにくい。
3.やや早咲きの傾向。
4.花に強い香りを持つ。
5.子房に毛がある。
6.花色が紫を帯びた桃色、赤、白になるものが多い。

 名前の由来はよくわからないらしいが、「佗び数寄」によるという説や、「佗助という茶人が好んだから」という説などがある。
 薄田泣菫が随筆『侘助椿』の中で以下のように書いているという記述にであった。
「この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭氏の言ふところが最も当を得てゐる。利休と同じ時代に泉州堺に笠原七郎兵衛、法名吸松斎宗全といふ茶人があつて、後に還俗侘助といつたが、この茶人がひどくこの花を愛玩したところから、いつとなく侘助といふ名で呼ばれるやうになつたといふのだ」
 これも近代以降の伝聞による記述だから、本当のところは?にしておいた方が良さそうである。

「甲を着た古墳人が見つかった金井東裏遺跡の調査とその意義」(右島和夫氏)

2016年03月15日 23時35分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は実に6日ぶりの青空だったということである。陽射しは暖かだったが、強風注意報の出ていた風は冷たく感じた。夏用の薄いブレザーに薄い化繊のサマーセーターで出かけようとしたら風が冷たくて慌てて家に戻って、ダウンのコートに着替えて再度外出をした。



 本日の講座は「甲を着た古墳人が見つかった家内東裏遺跡の調査とその意義」という題で、群馬県埋蔵文化財調査事業団理事の右島和夫氏。
 五世紀後半から六世紀にかけての北関東の情勢、榛名山の噴火、東山道の成立、馬の飼育に関する大阪から飯田そして群馬にかけての遺跡の分布から当時の社会、首長層の在りようを語ってもらった。
 甲を着た古墳人の来ていた甲冑、装身具などから朝鮮半島からの渡来人の可能性の強いことなど大変示唆に富み、興味深い公演であったと思う。

 帰りに「屋須弘平展」を時間をかけて見てから帰宅したため、夕食間際の帰宅となった。本当はせめて桜木町あたりから歩いてみたかったが、時間もないので断念。あすはもっと暖かくなるようなので、ウォーキングに出かけたいものである。

再訪「屋須弘平-グアテマラ140年のロマン-」

2016年03月15日 21時23分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 本日アースプラザで屋須弘平展を再度見てきた。パネルに屋須弘平の年譜と解説をわかりやすく、詳しく記載してあったので、パンフレットが無いということならばパネルの写真撮影を認めてもらいたかった。しかしそれもダメだという。代わりに年譜がおいてあるというのだが、ここに掲げた程度のものでしかない。
 せっかく屋須弘平という知られざる写真家のことを勉強するにも、あのパネルを全部筆写するか暗記して帰れ、というのはあまりにひどい企画展ではないだろうか。
 作品については著作権のこともあろうし、粗悪な複製画が出回ってまずいこともあるだろう。しかし解説までもダメというのは私には納得のできない措置だと思われる。再検討してもらいたい。
 それなりにいい出来だと思われたパネル展示を見ながら、限られた時間の中での鑑賞なのだから、せめてこの解説のコピー位は配布してもらいたいかったのだが、残念である。
 記憶に残ったものをうろ覚えながら記載してみる。もしも違っていても、私の記憶力の無いのが原因ということになるのだろうか。

 まず、屋須弘平は仙台藩という幕府の方針に沿って幕末を迎えた藩に育って、蘭学を収めて医者になり、幕府軍の軍医として戊辰戦争に加わっている。一方で尊王攘夷派の薩長等の志士たちが貪欲に欧米列強のことを吸収しようとしている様をみて、フランス語・スペイン語などを習得したようである。そして金星の太陽面通過のメキシコの観測隊の通訳として横浜の野毛で観測に従事し、天文学の習得を志したらしい。
 メキシコにわたり天文学の勉強を始めたものの、メキシコの政変を受け寄宿していた先の人間がグアテマラに転出、それにしたがってグアテマラに移り、写真術を学ぶ。帰国のための資金稼ぎのためであったらしいが、私の記憶は曖昧である。
 1880年に写真館をグアテマラ・シティで開業し、1883年37歳の時に洗礼を受けている。洗礼名はファン・ホセ・ヘスス・デ・ヤスとなり、敬けんなカトリック信者として、グアテマラ国民として生涯を終えている。
 いったんは写真館を閉めて日本に帰国し、母親を東京の築地に住まわせたようだが、高橋是清に壊れてペルーの銀山開発計画に通訳も兼ねて加わるが、すでに廃坑となった銀山を買わされていたことがわかり、計画はとん挫、従業員の帰国等に奔走している。
 屋須弘平はこの高橋是清の依頼を受けたのだが、その杜撰だった山師的な計画に大きく絶望したようだ。日本の指導者に対する絶望が大きかった、というようなパネルの表示がされていた。ここら辺もキチンとその解説の表現を再現したいのだが、それが許されない。
 私は屋須弘平が事業の後処理でもっとも大切な従業員の帰国処理をキチンとした後に自身の帰国をはかろうとしたことに、注目した。屋須弘平という人間にとても興味を抱いた。この時の屋須弘平の心境や、客観的な記録が欲しいものである。
 そして屋須弘平は日本の地には戻ることなく、1891年45歳の時にグアテマラ・シティで写真館を開業し、マリア・ノリエガと結婚し、アンティグアという都市に写真館を移転して生涯をそこで過ごし、1917年71歳で生涯を閉じている。日本に戻ることをしなかった屋須弘平の心の内もまた知りたいものである。
 屋須弘平の写真について飯沢耕太郎が、簡潔に評を加えたパネルもあっが、それには「移された建物の構造までもがわかり、作品の構図も優れている」というような趣旨だったと思う。引用が違っていたらそれもまた私の記憶が情けないということにされるのだろうか。
 羽幹昌弘という写真家が屋須弘平の都市を移した作品と同じ構図でカラー写真を撮影し並べている展示があった。素敵な試みであったと思う。モノクロとカラー、屋須弘平の時代と現代のカメラの性能の違い、レンズの違いなどはあるが、その違いを超えて作品はインパクトがある。中米の背景の山と都市の建物の風景の対比が特徴の作品はとても魅力的である。両方並べてあることによってさらに作品の魅力が浮かび上がっているように感じた。
 飯沢耕太郎氏の講演会が3月6日に終わってしまっていることもまたとても残念であった。これに参加したら、何らかの資料が紹介されるなり、販売されたのであろうか。そんな情報すら会場には示されていない。
 くどいようだが、これでは屋須弘平という先人の業績や作品を広めることにはならないということを再度記しておきたい。

ショパン「ピアノソナタ第2番」(アシュケナージ)

2016年03月15日 11時51分35秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ショパン(1810~1849)のピアノソナタ第1番は習作に近くあまり演奏されることはないが、この第2番は代表作ともいわれる。ショパン29歳、1839年の作であるが、第3楽章の葬送行進曲は1837年には完成していたらしい。ジョルジュ・サンドとの生活の始まりと1830年のポーランドの失敗した独立運動11月蜂起が作品の背景にはあると云われる。
 第1楽章は荘重な和音の連続で始まり、すぐに最初の主題が出てくる。このつながりというか変化が私のお気に入りである。穏やかなメロディーが浮かび上がるようでいて和音の中にすぐに隠れてしまうような進行も、聴く人間に次の展開への期待を先へ先へとひっぱっていく効果がある。しかしこの期待も結局ははぐらかされるように細かい和音の連弾の中に埋もれていく。人はこれを焦燥感の発露、あるいはポーランドの独立の夢が破れたことと結びつけて解釈しようとする。その妥当性については私は何とも言えない。しかし焦燥感というか何か解決できないままいつの間にか楽章が終わりを迎えるという曲の莫れに聴く人を引きづり込んでいくことは確かである。
 第2楽章の出だしは第1楽章の気分をそのまま引きづるように、あるいはさらに輪をかけて浮かび上がり切れない舞曲のようなテーマを心の中で再度反芻しようとする衝動すら湧いてくる。トリオに至ってそれは忘れて、美しいメロディーに初めて身を委ねることが出来る。再現部のあと再びこの部分がわずかに繰り返されるところが展開の上では心憎い演出である。
 第3楽章はあまりに有名な曲であり、独立して惹かれることも多い。故郷喪失という思いの強いショパンらしいと云われる。失敗に終わった11月蜂起への挽歌とも言われる。そういう背景は気にしても「葬送」の曲として多くの人の心に寄り添う力を持っていると思う。
 ここでもトリオの部分の美しいメロディーはモーツアルトのレクイエムのラクリモーザに匹敵するように美しい。この後に重苦しいテーマが繰り返されるとこのテーマが明るく浄化されるように聴こえる。
 第4楽章は何とも言えず不思議な曲である。葬送行進曲の後に跳ね回るようなブレストは寂寥感や葬送の後の鎮魂とは雰囲気が違う。第2楽章の出だしの重苦しい気分が戻ってくる。葬送の時に天上の音楽だけでは決して癒しとはならず、慰めともならずに意識の底に残る無念の感情の発露に思える。

      

寒く、何となく疲労感のある1日

2016年03月14日 19時53分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は14時前には帰宅できた。しかしどこか疲れがあるのか、16時半ごろからついウトウトと寝てしまった。朝起きて軽く風呂に入り、お粥の朝食を摂り、バスと電車で帰宅しただけである。4人部屋で慣れない布団で寝たためだろうか。温泉に入ってリラックスしたつもりであるが、疲れは取れていないのだろうか。あるいは2時間の宴会の司会とその後の二次会での司会のお手伝いの疲労があるのだろうか。
 若い頃には平気だったが、体力が無くなってきている証しだろうか。読書もCDを聴く気力も湧いてこない。ウトウトしたが布団にくるまって早目に寝てしまいたい気分である。

 さて、部屋の中がなかなか暖まらず寒い。「レインアイよこはま」などを見ると横浜市の地図の中心部に時間雨量50ミリ未満の地域が丸く広がっており、同心円状に強い雨域が広がっている。この区域がなかなか移動せずに居座っている。強い雨の区域は伊豆半島の付け根から御殿場市にかけても居座っている。
 とうとう横浜市の最高気温は午前0時8分に7.3℃を記録したままになっている。その気温も平年に比べて-5.9℃も低い。横浜市域には強風注意報だけが出ているが、先ほどから時々遠くから雷の音も聞こえる。明日は最高気温は12℃となって平年並みらしい。

 明日は午後から古代史セミナー。終了後x再度屋須弘平展を見てくる予定。  

「いこいの村 あしがら」から帰宅

2016年03月14日 15時28分10秒 | 山行・旅行・散策
            

 横浜も朝から冷たい雨だったとのこと。気象庁のデータを見ると、本日の14時半の時点での最高気温は昨晩日付が変わったばかりの0時8分に記録した7.3℃となっている。今朝の天気予報では本日の最高気温は8℃となっていたので、本日の最高気温は午前0時8分のままに推移しそうな気配である。

 さて昨晩泊まった「いこいの村  あしがら」は食事もお風呂もきにいったが、部屋も綺麗で良かった。今まで私はこの施設についてはまったく知らなかった。昔でいう鉱泉を沸かした湯であるが、ぬるめに設定したお風呂は長湯好きには嬉しい。
 シーズンオフならば10畳の和室で3名宿泊の場合一人当たり1万370円と高くはない。安い部類に入るであろう。同行者の記憶では、昔は県の所有する保養所であったらしい。県の財政難を理由に財団法人化され、県の補助金は打ち切られているとのこと。
 桜散策の季節に合わせた特別プランなどもう少し早めに知っておけば良かったと思った。
 実際に行くことができるかどうかはわからないが、一市三町(秦野市、開成町、大井町、中井町)で作成した4月上旬がお薦めという枝垂桜や八重桜などの散策ハイキングコースのパンフなどを手に入れてきた。

 行きと同じく小田急新松田駅から海老名駅経由相鉄線で帰ってきた。横浜に戻って来ても気温は相変わらず低いまま。明日の朝までこの雨は続くらしい。

残念ながら雨

2016年03月14日 06時55分03秒 | 山行・旅行・散策
旅館の朝は残念ながら本降り。
昨日は曇り、本日は雨で富士山はまったく見えない。
しかし周囲は早咲きの桜が美しい。
送迎バスからの桜の眺めはすばらしい。
バスで15分。天気がよければ歩きたい風景である。

朝風呂、とても気持ちが良かった。

いこいの村 あしがら

2016年03月13日 15時40分16秒 | 山行・旅行・散策


本日の会場は、「いこいの村あしがら」(神奈川県足柄上郡大井町)。温泉として「あしがら温泉里山の湯」をうたっている。日帰り入浴も700円から。

始めて利用する施設だが、50名で利用する我々にも、家族連れにも、利用しやすい施設のようである。
パンフレットでは「雄大な富士山を眺めながら・・・」がメインになっている。

会議と研修、講演はあと1時間半。

相鉄線

2016年03月13日 11時02分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
横浜駅から相鉄線に乗車。私は普段はJR、市営地下鉄、東急の利用が圧倒的だが、横浜に住んでいるとこの相鉄線を利用する機会はかなり多い。相鉄線沿線沿いに住んだこともあり、乗車するときは何となくワクワクしたり、懐かしかったり、ホッとしたり。沿線の54年も前からみると景色も、駅舎も、車両も、乗客の様子も大きく変わった。

海老名駅で小田急線の乗り換えて新松田駅まで。所要時間も短くなった。

明日は泊り込み幹事会

2016年03月12日 22時17分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日も昨日と同様に寒かった。横浜の最高気温は8.4℃と昨日よりは2℃高かったが、風もあり、体感温度は変わらないと思った。平年の最高気温より4.5℃低いそうである。
 本日は金時鐘氏の講演の後、関内・日本大通りからみなとみらい経由で横浜駅まで歩いてみた。途中ビル風が強く、ダウンコートの襟を立てて歩いた。桜木町駅近くでは何かのコンサートかイベントでもあったのだろうか、大勢の若い人が歩いていた。皆厚いコートの前ボタンをきっちりと閉めて寒そうに歩いていた。
 横浜駅東口でベトナム料理店に入った。海鮮フォー900円也を食べた。他のベトナム料理店より日本人好みのようにアレンジしてあったが、美味しかったと思う。講演会が二人で1000円で済んだので、気が緩んで桑の実入りの赤ワイン490円も飲んでしまった。
 入った時はすぐに席に案内されたが、帰り際には店の外まで並んでいた。結構人気の店であったようだ。

 明日は団地の理事会の諮問機関の会議、それを途中退席させてもらって、退職者会の泊り込みの幹事会・学習会に向かう予定。場所は神奈川県足柄上郡大井町。11時少し前には相鉄線横浜駅を出て、13時前に新松田駅に集合し送迎バスで15分かかるらしい。
 14日(月)は午後には解散であるが、おそらく海老名駅または横浜駅で打ち上げの飲み会の可能性がある。

 明日も曇りで気温は本日とほとんど変わらないらしい。

「日本と朝鮮のはざまで」(金時鍾氏講演)

2016年03月12日 20時25分37秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日は横浜市開港記念会館で、詩人の金時鐘(キム・シジョン、1929~)氏の大佛次郎賞受賞記念の「日本と朝鮮のはざまで」という講演会。開始時間の20分ほど前に会場に着いたらもう会場にはかなりの人が入っていた。私は事前に予約していたのですんなりと入れたが、定刻には満席となっていた。補助席も含めて340余席はすべて埋まっていた。
 金時鐘氏は今年87歳になるとは思えない張りのある声で、立ったまま90分の講演&質疑をこなしていた。
 内容は1945年8月15日の「朝鮮解放」=日本敗戦、1948年済州島「四・三事件」、そして時には1980年「五・一八光州事件」とが相互に交錯しながら、1945年と1948年の実体験の重みをもって講演が進む。
 1945年の時点での皇国少年、1948年の時点では「南朝鮮労働党員」、戦後の在日朝鮮人活動家としての活動の中で詩を書き続けた根拠を掘り下げていく。
 「20数年前に自伝を書けと言われたが、四・三事件に触れれば軍人出身の韓国大統領の施政下、南朝鮮労働党員であった私が表に出ると住民蜂起の正当性を損ね、李承晩政権の共産暴動という位置づけを裏付けてしまうのではないかというためらいがあった。さらに不法入国ということが明らかとなり強制送還される恐れもあり命が惜しかった」という言葉から戦後の生き様の重みが伝わってくる。
 「思い出は「毬栗の毬」を心の奥に抱えたようなもの。発狂するか、自殺するか、ギリギリの精神で作詩することで日本での生を持ちこたえてきた」ともいう。
 四・三事件を語ることで、親族や両親、仲間の死とどのように向かい合い、氏自身の回生につなげたか、「死んだ者の鎮魂は現地の産土の神を祀ることでしか果たせない」という言葉は、東北の犠牲者の鎮魂にもつながることばであったように思う。

      

ショパン「ピアノソナタ第1番、子守唄、舟歌外」

2016年03月12日 11時35分30秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ショパンのピアノソナタ第1番は18歳の時の習作に近い作品と解説に記されている。私も購入したころに一度だけ聴いてその後は聴いたことが無い。本日あらためて聴いてみた。第1・第2楽章は私には退屈に聴こえる。同じような動機が抑揚なく続いているような印象である。しかし第3楽章がとても不思議な雰囲気である。長いようで間延びしているメロディと思われるが、のんびりしたい時の息に沿う平坦な起伏である。
 解説には5/4という珍しい5拍子を採用しているとのこと。チャイコフスキーも第6番の交響曲の第2楽章で使ったことのあるスラブ調のワルツに見られる拍子だそうである。曲の雰囲気はまるで違う。たぶん3拍子+2拍子でひとくくりのリズムだとおもう。静かなに終始したのち、突如としてフィナーレがフォルティッシモのブレストで始まり、一気に最後まで突き進む。生がいいというか、疾走感があるが起伏はない。
 子守歌、舟歌はどこかで聴いたことはあるはずの有名な曲。子守唄・舟歌をショパンはそれぞれ1曲しか作っていないのだそうだ。ジョルジュサンドとの破局・別れが近い頃の曲でその感じが漂うという解説に納得してしまうような寂しさがある。当然ではあるが子守唄には私は眠くなってしまう。舟歌が好みである。
 このCDも録音は1970~83年にまたがっている。いつ購入したのかはすっかりわからない。

   

明日は第42回大佛次郎賞記念講演会

2016年03月11日 23時17分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では本日の最高気温は13時少し前に記録した6.4℃にしかならなかった。一番寒い時期が今ごろの3月中旬というのも珍しいのではないだろうか。
 組合の会館にて若干の作業を行って帰宅。
 一日中降っているような、しかし傘は必要ない位の細かい雨であった。雨と云うよりも霧雨という表現がしっくりくるようだった。24時までの降水確率は20%、明け方6時までの降水確率は10%で曇りの表示になっているが、降った場合雪の可能性もあるようだ。
 明日は昼間は晴れ間も出るようだが、最高気温は10℃の予報で本日同様寒さが続くとのこと。まだ当分冬物のコートを仕舞うことはできない。

 明日は横浜市開港記念会館で、詩人の金時鐘(キム・シジョン)氏の大佛次郎賞受賞記念の「日本と朝鮮のはざまで」という講演会。入場料500円。
岩波新書「朝鮮と日本に生きる-済州島から猪飼野へー」が受賞作品。

3.11に思うこと

2016年03月11日 18時58分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は東日本大震災から5年目。5年前も寒い日であった。私は横浜市内の職場にいたが、その時の体験をはじめとしてこの震災を契機にさまざまなことを学んできたように思う。昨年はこの体験を思い返して総括することが大事ではないか、ということで自分の体験をつづったと思う。今でもその思いは変わらない。自分がその日に何をなし、そしてどのようにこの震災とかかわってきたのか、自分なりに大切にしたいと思う。
 今年もその思いは変わらない。今年も当日この横浜の地で何をし、職場でどう振る舞い、地域や家族とどのような関わりを持ち、会話を積み重ねたか、それらはとても大事なことだと思う。
 例えばもっとひどい揺れだったらどう行動したか、あのような津波の恐れがあったとしたらどうするのがベターなのか、現役で仕事をしていた時と違い退職直前だったこともあり、退職後ならばどのような行動が必要なのか、いろいろと考えをめぐらした。また現地の状況に対して自分ならではのかかわりは何か、新聞やテレビで触れるたびに妻と今でも話をしている。また地域でも話題に極力するようにしている。
 労働組合の退職者会の役員として関われることは何か、自分が提起できるかかわりは何か、それなりに今でも考え続けている。それがどのような成果があったかは、自信をもって表現できるようなものはないが、それはそれで止むを得ないと思う。
 ただひとつ大事なことだと思っていることがある。常に自分があのようなことに遭遇したらどう行動するか、を具体的に考え続けることだと思う。それは地震・津波に限らない。さまざまな自然災害や天災、原発事故だけでなく様々に想定される事故等々、他人に頼るのではなく、どんな場合でも自身で状況を切り開くことを想定しなくてはいけないということは大きな教訓である。
 3.11は今も継続して発生している災害だと思う。福島の原発事故だけでなく、未だにあの災害は収束していない。今も被害を人々に与え続けている。当日以降の被害のかなりの部分は人災という側面もあることを忘れたくはない。
 こんなことを思いながら本日の午後を静かに過ごした。

 そしてこのような日は、静かにこの5年間に思いを巡らすために、フォーレのレクイエムが相応しいように思った。