Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

新しいキーボード

2019年01月18日 02時05分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 口永良部島が再び噴火した。昨日の朝9時19分頃であった。調度家を出たころである。電車の中で、その情報を受信した。映像の噴煙と火砕流の模様に驚いた。ニュース解説に出ていた学者が噴火はまだ続く見込みだといっていた。被害がなかったことはよかった。

 さて、キーボードが壊れたので、昨日購入。2800円以下のものを購入したが、これは2000円以下だと記憶している壊れたものよりも高い。ただしこれまでと違って「静音」設計ということで、タッチ音がほとんどしない。これはいい。
 しかしキーのタッチが微妙に違う。スペースキーの左側がこれまでよりキーひとつ分だけ横に長く、指のポジションの感覚が違う。スペースキーの両端に両方の親指をかけて他の指の位置を確認するのが、私の癖。スペースキーの左側が横に長いので左手の親指以外の4本の指の位置がキーひとつ分ずれてしまう。これに慣れるには少々時間がかかりそうである。他のキー、特にテンキーなどは特に問題はない。


「佐藤鬼房句集」から 2

2019年01月17日 22時07分22秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 句集「夜の崖」から

★爆音下水かがやいて蟻溺る
★遠く呼びあふ汽笛その尾に凍る星
  原爆の図
★殺戮へ降る雨黒く声阻む
★鶺鴒(せきれい)の一瞬われに岩のこる
★熔接の火走る見よや冬鴎
★重油浮く入江の寒さ戦あるな
★蜘蛛の巣に腹部を黒くきりぎりす
★枯野あたたか鉄錆の服をぬぐ
★旋盤の削屑(きりこ)へ冬日縞目なす
★雨しぶく鞴(ふいご)祭の唄はずむ


 蟻、きりぎりすは抑圧や被害を被る人びとの象徴。
 第1句、どこかの基地の爆音なのであろう。軍用機の爆音下でもがき続ける人々の生活を蟻が溺れる様にたとえている。
 第2句、汽笛の音が消えていく夜空に凍星を見つけた。呼び合う汽笛とは、戦争で亡くなった人びととの交感と解釈できる。それには無念の死という重い現実が光っている。
 第4句、鶺鴒が不意に眼を過ぎり、一瞬鶺鴒が足をかけて止まった岩が眼前に見えるのみ。鶺鴒の速さに感嘆している。過去の体験が不意に日常に浮かび上がった一瞬の後消えることを詠んだと解釈するのは飛躍しすぎだろうか。
 第6句、港の造船関係の職場で働いていたのだろうか。港内の海に浮かぶ油に、戦の時に海に浮かんだ重油を思い出したのだろうか。戦が迫っている政治状況に敏感になっている戦後の生活の一断面。
 第9句、旋盤で出た金属の削り屑を「きりこ」ということは初めて知った。私の元の職場の傍にも旋盤工場があって、夕方赤い夕日を受けた「きりこ」を幾度も見た。労働の終る間際の美しい時間であった。
 第10句、ふいごまつりは、旧暦11月8日(新暦で12月14日頃)。ふいご(たたら)を使用する鍛冶屋,鋳物師などの職人たちが行なう神事で、たたら祭ともいう。金属関係の守護神とされる金屋子神または金山彦神・金山姫神をまつる。火を扱う職人にとっては安全祈願の火でもある大切な祭りである。
 私の職場にも昔は鍛冶工がいて、毎年鞴祭りをおこない、各職場から一升瓶が届けられたが、鍛冶工の廃止とともに行われなくなった。今では全国的にも鍛冶屋さんがいなくなっている。
 

妻の熱発

2019年01月17日 19時39分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 妻が高熱を出した。インフルエンザの予防接種は10月にしているので、インフルエンザではないと思われるが果たしてどうであろうか。以前に風邪と診断された時に近くの病院で貰った薬と解熱剤を服用した。
 なかなか下がらなかったが、先ほどからようやく熱が下がり始めた。

 朝に熱が少しあるようだったが、私は講座があり出かけた。午後家に電話をしたら熱が下がらないということなので、急きょ弁当と、胃腸に負担のかからない総菜を購入して帰宅。電子レンジで温めて夕食を済ませた。

 明日の夜は私が遅くなるので、昼間に作っておく必要がありそうだ。食材は何とかなりそうである。

 明日の夜は私の属した支部の新年会、そこに顔を出す。退職者会へのお誘いである。なつかしい仲間との再会でもあり、毎年楽しみにしている。同時に若いと思っていた組合員が定年年齢に達したと聞くと、複雑な気持ちにもなる。ただし残念ながらお酒は飲めない。

兵庫県南部地震から24年

2019年01月17日 17時26分30秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日は、24年前の1995年阪神淡路大震災をひき起こした兵庫県南部地震(M7.3)地震が発生した日である。早朝の地震の情報にビックリすると同時に、なかなか被害の状況が明らかにならず、もどかしく思いながらテレビを見ていた。被害状況が甚大であることが少しずつ分かるようになり、驚いた。
 当日は宮城県の松島で政令指定都市の仲間との泊り込みの会議が設定されており、私は問題なく松島に行けたのだが、神戸・大阪・京都からの方はとうとう連絡も取れず、参加されなかった。確か名古屋の方は大幅に遅れて参加されたような気がするが、はっきりは覚えていない。
 参加した各都市の仲間と救援や支援の在り方などを急きょ議論して、翌日早々にそれぞれの都市に戻ったことを記憶している。
 私も立ち上げたばかりの小さな支部の責任者であったが、組織力量以上の支援体制を組合員と議論して決めたことなどを覚えている。
 労働組合の支援の在り方を模索しながらだったが、決して多くはなかった組合員が全力で協力してくれた。このときの経験が私どもの支部の力量を拡大し、その直後から組織率が格段に飛躍した。また日常業務の拡大充実に「災害対応」を見据えた方針を確立できた。
 災害にどう正面から取り組むか、日常活動とどのように結び付けていくのか、おおいに勉強となった。災害から1年後、神戸市の仲間を読んで、災害対応について勉強会も開いた。

 亡くなった方6434名、行方不明3名、負傷者約4万4千名、物的被害に遭われた方も多数おられる。日本全体の災害対策の中でも、大きな画期となった大惨事であった。雲仙岳の噴火災害に続いてこの災害、そして東日本大震災は現役時代の忘れられない災害である。

 毎年、この日と、3月11日には、そのとき自分が何をしたのか、どう行動したのか、出来たこと、出来なかったこと、取組みたかったこと、などを思い出しながら追悼している。


佐藤鬼房句集から

2019年01月16日 23時55分25秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 今、私の前に佐藤鬼房句集がある。佐藤鬼房(1919-2002)は岩手県釜石市出身。1940年から敗戦まで徴兵により中国や南方で転戦。1985年に宮城県塩釜市で俳誌「小熊座」を創刊、主宰。戦後は社会性俳句の代表的作家として活躍。戦争の記憶などにこだわりつつ作句したという。
 学生の頃から名前だけは聞いたことがあるが、この薄い芸林書房の「佐藤鬼房句集」を購入して目をとおしたのはいつだったか、覚えていない。10ページほどを読んでそのままになっている。発行は2002年4月だから作者が亡くなった直後の出版である。
 やはり気になる俳人である。まずはこの小さな句集を読み通すことから始めようと思った。まずは「名もなき日夜」から。

  (濠北スンバワ島に於て敗戦)
★吾のみの弔旗を胸に畑を打つ
★戦病の夜をこほろぎの影太し
★夕焼けに遺書のつたなく死ににけり
★生きて食ふ一粒の飯美しき
★雨期長しクレオソートに胃ただれて
★虜愁あり名もなき虫の夜を光り
★ひでり野にたやすく友を焼く炎
★向日葵の首より枯れて夜にたてり
 

冬の樹々を見ながら‥

2019年01月16日 20時44分14秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 ようやく資料作りの要領というか前回の会議までの経過を思い出してきた。必要な入力などがそれなりにできるようになった。2週間近く経つとすぐに要領を忘れてしまうようだ。
 本日のところはここまで。明日の午後から再び資料作りの続きをしたい。
 いつものように横浜駅まで歩いて往復したものの本日はとうとう太陽の貌を見なかった。寒さはそれほどは感じなかった。沿道の家々にも、街路樹にも緑が見当たらないのは、やはり寂しい。

★裸木となりてはじめて交す影      檜 紀代
★裸木となる太陽と話すため       高野ムツオ
★寒林の陽を見上げては眼をつぶる    飯田蛇笏


寝てしまった

2019年01月16日 14時32分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝近くの郵便局に行って来たのち、資料作りを始めたのだが、とても眠くなってしまった。パソコンの前で大きないびきをかいて寝ていたらしい。まだ冬の最中で、春の眠りには程遠い。ちょっと悲しいような、情けないような気分である。

 気分転換にこれより横浜駅まで歩いて眠気を覚まし、喫茶店で資料の読み込みをしたい。少し気合を入れないと‥。

 頭の中が膿んでしまったような気分である。

明日からまた資料作り

2019年01月15日 23時13分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日からは今度の土曜日の団地の会議の資料作りを始める予定。午前中は近くの郵便局へ出向いて郵便物の投函。重さが若干あるので定形外になりそう。友人の一周忌を兼ねた新年会に参加できなかった友人に渡す報告文書である。ご遺族には本日投函済み。
 会議の資料作りは昼前から作業に入る。先々週の会議を思い出し、復習をしながらの作業になる。有難いことに概略はいただいているので、とても楽になっている。できれば早めに仕上げてしまいたいものである。

 昨晩は入浴後1時間以上たってから布団に入ったので、体が冷えて寝られなかった。毛布をひっぱり出してきたがそれでも明け方まで寝られなかった。
 本日は早めに寝たいものである。毛布はもうしまった。


時雨

2019年01月15日 22時12分52秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 午後からときどき日が射して来たと思ったら、急に雨が降り出すという天気になった。黒い雲が不気味であった。すぐに止んだのだが、太陽は顔をすっかり引っ込めてしまった。太陽が沈む時間になってから雲に切れ目が出てきて、今はところどころに星が見えている。
 本日の最高気温はほぼ10℃とそれほどひくくはない。気分的に低く感じているようだ。

★旅人にしぐれて藍き嶽鎧ふ        飯田蛇笏
★時雨雲とざしかねたる星に逢ふ      加藤楸邨
★しぐれ道影失ひて歩みけり        牧長幸子


 第一句、旅人と遠景の山の景を同時に配し、大きな景が眼前に現われる。「芋の露連山影を正しうす」と同様の大きな句柄。
 第二句、雲間から見える星。だがこのときの句は空襲の激しい東京で句の句を集めた「火の記憶」におさめられている。米軍の艦載機がごく少数で飛んでくる1944年12月。弟が安否を問い、訪ねくるという緊張した時節である。優雅な星の光も、爆撃機の灯と二重写しに光る。
 第三句、急に時雨雲が空を覆い、自分の影が消えて降り出す一瞬の緊張。影は自分の影だけでなく、今ふと思い出された人、亡き人の面影なのかもしれない。

蝋梅

2019年01月15日 12時44分32秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は朝から太陽が顔を見せずに寒々しい印象。時折薄い雲をとおして弱々しい光が当たるが、暖かくなるとはとても思えない。カラスの声が凍えて聞こえる。

 12日に開催した友人の一周忌を兼ねた新年会の写真を整理。欠席者に当日出てきた友人の思い出の文章やら古い写真をコピーして送付の準備完了。あとは家電量販店で当日の集合写真を焼き増しして、同封するだけ。
 これから昼食をとって出かける予定だが、昨日よりは厚手のセーターを着た方が良いようだ。団地の傍の住宅の庭の蝋梅が美しく咲いていると妻が教えてくれた。探してみようと思う。

★蝋梅を月の匂ひと想ひけり       赤塚五行
★蝋梅へ帯のごとくに夕日影       川崎展宏


 第1句、鼻が良い匂いを感知しない私は、匂いは想像するしかない。月の光が蝋梅の匂いに重なるのかと新鮮な驚き。そんな匂いの感じ方もあるのかと感心した。古代の詩歌の世界のように匂いを光と解釈すれば、蝋梅と月の光が響き合う。私は現代風に匂いと光の色との複雑な絡み合いと解釈してみたい。そして「想ひ」から、過去の回想という解釈もできる。ひょっとすると艶やかな句なのかもしれない。
 第2句、淡い黄色の蝋梅の花に、橙色の夕日が直線的にかかる。それも隙間のある板塀などをとおして細長い日影として当たる。日のあたらない花は昏く、日のあたる花だけが浮き上がって見える。一日の充実が目に見えるようだ。この句も「帯」を女性の着物の帯と見るとまた違った景色となる。

茨城県南部の地震

2019年01月15日 00時15分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日、昼前に出かけるときに、スマホを持って出るのを忘れてしまった。充電器から外していつものようにズボンのポケットに入れるのを忘れた。無くさないようにズボンのベルトに紐で固定するのだが、固定用のバンドまでは自分で用意したのに、肝心なスマホを忘れるという失敗であった。

 そのために13時30分頃に茨城県南部で震度4(マグニチュード4.9)の地震があったのに詳しい情報を知るすべがなかった。淵野辺の駅前で昼食を食べながらバスを待っているときであった。淵野辺駅付近も、我が家の周辺も震度は2であった。店の中は20人ほどの客と5人ほどの店員、妻と私を除いて誰も気がつかなかった。私も初めは妻がテーブルをゆすっているのかと思った。妻は私の後ろの壁にぶら下がっている小さな額のような飾りが揺れているので地震と気がついたとのこと。
 計測震度は我が家の周囲で2.2となっている。意外と気がつかないものである。私も妻が指摘しなければ地震とはわからなかったと云える。

 この地域、いつも地震が起きる。地震の巣ともいわれる。いつもこの程度の地震が起きているので、歪は解放され大きな地震はない、と断言できるのか、それともいづれもっと大きな地震が起きやすいのか、それすらも分からないのが、地震予知の現状でもある。

上限の半月を見ながら‥

2019年01月14日 23時24分05秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日のプラネタリウムの解説どおり、上限の半月を西の空に見ながら、夜のウォーキングを35分ほどしてきた。上限の半月なので付の入りは0時14分とほぼ24時。半月でもかなり明るい。火星は残念ながら見ることはできなかった。
 ちょうど尾根道を東西に歩くので、月を見ながら歩いたり、背中に月を受けながら歩いたりとそれなりに面白いはある。これが半月でも加減の半月の時は、24時過ぎに東の空に昇ってくるので、見ることが出来ない。いわゆる更待月という月齢20日位の月ならば20時くらいに東の空に昇ってくるのを見ながら東向きに尾根道を歩く。横浜駅界隈の明るい高層ビル群の向こうに昇ってくる。
 西に傾く半月、東から登ってくる更待月、それぞれに趣きがありその光を浴びながら歩くのは楽しい。

★寒月や僧に行き合ふ橋の上       与謝蕪村
★寒月やひとり渡れば長き橋       高柳重信



JAXAと相模原市立博物館

2019年01月14日 21時20分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 相模原市立博物館まではJR横浜線淵野辺駅を利用して順調に現地到着。新横浜駅から晴れ着姿の成人式展参加者がそれなりに乗車したが、時間帯もズレており、混雑とは程遠く、町田までに皆下車。相模原市や町田市の式典参加車とも会わずに済んだ。
 JAXAのギャラリー展示を見てから、相模原市立博物館におもむき、投影時間までの間に地質年代から戦後までの相模原市の歴史の展示を見て回った。縄文土器などの展示は充実しており、興味深かった。中世以降から江戸時代前までの展示が希薄なように思えた。特に私にとっては道や街道などについて興味があるのだが、残念ながら少なかった。幕末から明治の時代の自由民権運動の歴史ももう少し充実してほしかったが、何から何まで私の興味の範囲で展示を求めても無理な話ではある。
 JAXAも市立博物館もすいていた。連休中なので小学生は当然家族連れて来ていた。中学生の姿を見かけなかったのはちょっと残念。透いていたので、ここを選択したのは間違いではなかったと思う。贅沢をいえば、私はロケット等についてはあまり昔から惹かれなかった。痰さ技術よりも探査結果の解説が欲しいので、それはまた別の場所に求めるしかない。

 さて、市立博物館の帰りがけに、尾崎行雄(咢堂)は今の相模原市緑区又野の出身であったことを知った。橋本駅からバスで遠いのだが、記念館があることを知った。いつか訪れてみたいものである。
 連休中は、繁華街には出ない、という禁を今回は自ら破ってみたが、空いているところを見つけてそれなりに楽しめた。

 15時50分からのプラネタリウムの投影を見て、再び横浜線で横浜駅までもどり帰宅。


プラネタリウムの投影を見たくなった

2019年01月14日 11時24分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 3連休、他の人に迷惑をかけない範囲のお出かけはどこがいいのかといろいろと候補を探ってみた。昨日のようなお寺巡りは続け続けたくはないらしい。
 思い切って現代風でどうかということを考えていたら、プラネタリウムを観たいということになった。小中学生が大勢いたら諦めるという前提で、相模原市立博物館が候補になった。となりにはJAXAもある。こちらも子どもが大勢いたり、若い人たちが大勢いたら諦めるが、空いている可能性が高いらしい。
 ということで、昼過ぎに出かけてみることにした。問題は新横浜駅近くで行われる成人式典。相模原市の式典の会場も気にはなる。普通なら出かけないという選択をするのだが‥。


成人式

2019年01月13日 22時58分20秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 私が成人式を迎えたのは、1972年の1月。もともと参加する気持ちなどなかった。学生時代は住民票を仙台に移していたのだが、案内は来なかったように思う。あるいは記憶がないだけかもしれない。
 当時は政治不信の時代、政治家である市長の訓示に反発する学生が多かった。行政主導の成人式典の在りようそのものにも批判が多かった。私は、成人式そのものがピンとこなかった。大学のバリケードの維持に邁進していて、基本的には成人式など無視をしていた。

 バリケードの中での食事の買出しで、仙台市の成人式典の会場をたまたま通り過ぎた時、ちょうど式典から出てきた振袖姿の女性たちが集まっていた。中に生まれたばかりの赤子を抱いている女性が談笑しているのを間近に見た。そのとたん私は、「私の運動や主張は彼女たち、彼たちには届きようもないな、無理なのだな」と思ってあらあらためてショックを受けた。
 成人式が彼女たちにとっては人生の大きな節目なのであったろう。成人式に対する不信が、あくまでも個人的な感慨にとどまっていた。分かってはいたが、彼女たちの心には届かないことを、眼前に具体的に突き付けられた気分になった。
 私たちの思いを伝えたところで、また理解してもらったとしてもどうなるものでもないことも十分承知をしていたつもりである。

 そんなことをふと思い出した。成人式典会場での感想をどう自分の中で処理をしたのかは覚えていないが、どこかでつながるような地に足のついた生き方をしたいと思ったことは確かである。

 68歳に間もなくなるが、未だに成人式というものが私には理解できない。やめてしまった方がいいように思っている。私の子どもは、20歳の誕生日に正装した写真を撮影して、世話になった親族に「何とか20歳になりました」と報告した。あとは本人に、社会人としての自覚を求めただけである。子どもがどのように私の気持ちを受け取ったか、確かめてはいない。