【イ・チャンドン】作品だが、いつものような激しさがない。たゆとう流れる川の水のようにゆったりと話は進んでゆく。冒頭、川に死体が流れてゆく。顔は見えないが女性らしい。うつ向けで顔は分からない。水は限りなく清らかだ。
以降は老女の心象に沿って展開してゆく。ワンシーンワンショットだったかと思えるほど緩やかなカメラワーク。生活の厳しさ、孫が仕出かしたことの重要さを想う時でもその緩やかなタッチは変わらない。しかし、きめ細かい心象風景をつないでいるが観客には決して悟られない仕掛けが施されているかのようだ。
彼女はアルツハイマーを発症し、娘とも疎遠だ。捨てられたかのような孫との生活も事件を知って以来、ある意味忍従の生活を強いられている。そんなとき、詩を作ることを始める。詩を作るということは美を求めるということらしい。(少なくとも映画ではそうなっている)
僕も若い時詩を作っていたときはあるが、詩も散文も一緒だと思う。ただ手段、方法が違うだけだと思う。自分の心にあるものを文字というものに放出するのだ。ずっとそう思っていた。けれど、詩は美しさを求めていくものだと述べられる。
だから老女も悩む。どうやって詩に近づくのか分からなくなる。先生は言う。「リンゴを見てごらんなさい。そこから何を感じるか。あなたはリンゴを見ているか。」。僕は詩とはそんな技術的なものではないと思う。絵画だって対象を見ることから何かが生まれてくるなんてこと今でも言ってるんだろうか、、。
ちょっと脇道に入りました。
静かな心象を追っていた映像にどきりとするシーンが突然現れる。老女と老人とのバイアグラセックスである。『オアシス』でも身障者同志のセックスが描かれたが当然愛する者同士の行為は形はどうあれ美しい。けれど、今回のセックスはただの行為であり、美しいとは言い難くそれでいて不快でもなく、不思議と何も感じなかったというのが本音だろうか、、。
老女は自殺した少女に近づこうとしている。橋から川を見下ろし、ミサを行っている教会から少女の写真を盗み戒めのためか孫の食卓に置いたりする。凌辱を受けた学校の実験室を観察したり、折衝を依頼され少女の実家にまで行く。
しかし驚くなかれ、イ・チャンドンは静かな行為の中に老女の企みをラストまで見せてはくれなかった。ついに彼女は詩を極めることによって少女と同化してしまうのだ。少女の親でさえ金で事件を納めようとしているのに少女の心を知ってしまったばかりにそれを許せなくなる。警察に通報し事の裁きを待つ。そして駆け付ける警察の車とすれ違う孫とバトミントンをしている老女の姿。本当に清らかで美しい。
冒頭の川の流れがラストシーンの始まりでもある。老女の作成した詩は少女の詩となり、少女の声となり変わる。少女は微笑んでいる。恐らく老女も微笑んでいる。そして老女の体も川の流れにゆったりと身を任せ静かに流れてゆくことだろう、、。
詩の教室で詩を作成した人は老女だけであった。教室の大多数の人間は詩を書くことができなかった。もはや現代では詩は不毛なのか。映画自体も不毛なのか。人間は一体全体どこへ行こうとしているのか。信仰への境地にも近づいている恐いラストであった。そして静かな【イ・チャンドン】の祈りを見たのであった。
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