昔懐かしスタンダード画面。カメラはサウルだけを追う。クローズアップ。彼とともに動く。望遠レンズで撮ったかのように彼の周囲はボケている。しかし、観客はそれが何を表わしているのかつぶさに気づく。それは人間が見てはならないものなのだ。
正直このカメラ映像は少々疲れるが、人間って不思議と慣れる。そしてその正視し難いできごとでさえそのうち慣れてくる。僕らもサウルの日常と化している。
自分のことを、生きているが死んでいるかのごとき、とサウルは思っている。しかし青酸ガスで生き残った少年を見たとき、そして少年が窒息死させられるのを見たのち、彼は変わる。
解剖をさせまいとし、ユダヤ教のしきたりに応じ埋葬してあげたいと思う。それがサウルの、日常の死から生へと邁進する唯一の光となる。
少年の遺体は彼の中ではいるはずもない息子となり、同志として携わっているレジスタンスさえどうでもよくなることとなる。人間性への目覚めなのだ。人はどんな過酷な環境でも生への意味、希望を見出す。なぜならそれが現に生きていることの証となるからだ。
ゾンダーコマンドという存在。ナチスは自ら手を汚すことなくユダヤ人を殺戮する。その狡猾さ、残忍さ。その人間の際限ない狂気にわが身は震える。
ラスト近く、不意に登場する少年の目のように、我らも真実を真正面から見続けなければならない。少年の目は現代に生きる我等の目である。カメラを望遠から広角レンズに変えて、、。
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