なかなか現代では特異な題材であります。死者の生きてきた軌跡を胸に刻むために巡礼者のように各地を歩き続ける青年。それは現代の漂泊者である。
高良健吾の清楚な佇まいにより、かろうじてこの映画は品位を保っているかのように見える。そうでなければあの奇怪ともいえる祈りは「敷地外に出ていけ」と言われても仕方のない代物だとも言える。
また一方奇怪と言えば、井浦新の役どころはどうもこの映画に違和感を覚える原因にもなっている。新興宗教ではなく、仏教の住職というのがどうも観客の判断を狂わせる。悪人とも思えないが、一方ではハーレムをも形成しているジコチュー人間なのである。
恐らくこの映画の主役は現代の彷徨える宗教者である高良健吾でもなく、すぐ黄泉の世界に旅立とうとする母親でもなく、名もなく一瞬にしか生きられなかったその他大勢の死者たちなのであろう。
だが、死者は生者を通して生き続けることができる。それは生者の胸の奥であったり、一部は書物、映画等を通してでも可能だ。生者もいつかは死者になるのであり、人間はその営みを通して歳月という歴史を誘ってきた。
悼むということは一体全体どういうことなのだろうか、、。
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