今年の話題作であると同時に個人的にも小津を標榜する私としては気になると共に待ちに待った作品でもある。でもどうしてもオリジナルとの比較をしてしまう自分が存在する。でもそれは仕方のないことなのである。世界的名品のリメイクなのだから。
山田はオリジナルと似ているようであちこち相違を持たせている。まず、郷里の舞台を尾道からフェリーで渡る島に設定したこと。そのためラストでは父親と紀子が眺めた浄土寺から見える空が東京の病院の屋上の空へと変わっている。
尾道を捨てたのはいかなる理由かその意図が僕には分らないが、東京物語と尾道とは切り離せないものだと僕は思っている。(大林宣彦の尾道と同じく)
あと、戦死した二男と寡婦という設定を現代の若いふたりに変えている。オリジナルは家族の崩壊の話でもあるが、根底には戦死した二男の存在が重くぶら下がっており、ある意味反戦映画でもあるのだ。そこを山田は若い二人が3・11でボランティアをしているところに出会ったという風に「戦争」と「大災害」を変えている。
しかし、二人の出会いは写真一枚で説明されるだけなのである。手抜きとは言わないが何故絵コンテに入らなかったのだろうか、、。オリジナルの「紀子」が「晶次と紀子」に取って変わっているのである。しかしオリジナルでは不在だった二男だけがこの新作では自由に表現できる素材となり、逆に小津の呪縛から解放されている。この部分は新鮮である。
気になるのは死んだ友人を尋ねるシーンで、3・11をさらに呼び起こしていることである。まるでオリジナルの戦争と3・11を対比させているかのように、、。ちょっと山田節入る。
山田は徹底的にオリジナルを意識している。長男と長女の家屋とその調度品は現代でありながら実に1953年に戻っている。さすが晶次のアパートはそれほどでもないと思ったが、、。この徹底さの意味合いは、何か。これもオマージュか。
オリジナルでは、家族とはいえど子供も成長すれば親から離れ気持も変質していくものなのだ、それは仏教の無常観にも通じるもので静かな締観が全体を覆っていた。しかし、山田はことあるごとく「この国はどうなってしまったのだ」、と締観どころか嘆き愚痴らせる。酒場でそのあげくマダムを罵倒すらしてしまうのだ。
あの高級ホテルでのメイドが愚痴る若者と年寄りの相違のエピソード、そして周吉が嘆く酒場で偶然居合わす3人組のサラリーマンの怒り心頭ぶりも作品全体のリズムを崩しそうだし、何か違和感を持ってしまう。急に山田の説教節があちらこちらで始まるのである。
ラスト、オリジナルとは違いもはや天涯孤独になってしまった周吉の世話をだれがするか。オリジナルでは教師になったばかりの二女がいたが、そういう身内ありの設定はされてはいない。すると、隣に住む高校生とその家族が周吉の面倒を見るという奇抜な結論が用意されている。
いくら島の生活でもねえ、とちょっと僕には違和感が。これも山田節の影響かなあと思ってしまう。一人でやれるところまでやればいいじゃないか、と僕なんかは思うのだが、締観しないで人を頼ってもいいのでは、という山田独特のサジェッションがそこにある。
オリジナルとの比較に重きを置いて書いてしまったが、作品自体は勿論秀逸で所々泣かせるシーンも多く僕自身感心してしまった。オリジナルを標榜するあまりどうしても違いの意味を考えてしまう悪い癖があるが、リメイクとは良くも悪くもこういう比較をされる運命にあるのだ。
それを承知で世界に名だたる名作のリメイクに挑戦した山田のこと。これぐらいの意見が各方面から出没するのは想定内のことであろう。一つだけ付け加えるとしたら、できたらやはり郷里設定を尾道にしてもらいたかったというのが偽らざる僕の気持である。浄土寺はやはり当時とそれほど変わっていないので(2回ほど観光に行っている)この空間だけは撮影をしてもらいたかったなあ、と思うのだ。
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