リアリズムと言おうか、小林作品は場面の繰り返し(リフレイン)が多い。この作品でも、とにかくインスタントラーメンとメロンパンのがぶつき、そして水道が止められているから仕方なく汲み置いたペットボトルの水をぐぐいと飲むシーンがリフレインされる。
不必要なセリフは一切ない。観客は小柄な少年をいやというほど注視させられる。17歳の少年が電気・ガス・水道を止められ母親の面倒まで見れるのか。少年の目には優しさが当然なくなっており、厳しい目つきが座っている。
母親は去って行った男(父親)の苦渋の思いを子供に垂れ尽くし、あっけなく死ぬ。少年は金がないのに入院費や葬式代まで工面をしろと周囲の大人から突き付けられる。社会は何もしてくれない。少年は前を見ることができない、、。
観ている間、【トリュフォー】の『大人は判ってくれない』と【是枝裕和】の『誰も知らない』をずっと感じている。音声が一切なく、北欧のドグマ映画にも似ている。タッチはダルデンヌ兄弟風でもある。
単調なリフレインを外れると、母親の病室か、小さな船で東京の父親を思い浮かべるシーンが出現する。ああ、哀しいと思う。17歳の普通だったら一番盛り上がっている年齢なのに、少年は今にも難破船で喘いでいるかのようだ。
やはりお金は一番重要だというこの認識は悔しいが正しい。幾ばくかのお金は生きている間は絶対必要なのだ。朝起きた時からお金がなければ人間は生きていけない、のが真実だ。
優しい少年なのである。いつも行っていた小さな夢の空間、小さな船に死んだ母親を運び、そこで自分も生まれ落ちた姿の真裸になり、母親の死体に付き添ってあげる。何と美しい映像であることか。そして少年はそのまま、母親を水葬する。
その後やはり気になる父親に会いに行く。ところが父親は新しい家庭を気にしているのか、ずっとそんなところにいると警察を呼ぶよ、と息子に告げる。絶望に追いやられる少年。赤いTシャツの後ろ姿がいかにも哀しい。
と、翌日だろうか、父親が気になり息子の居た家の前に出てくる。いないなあと思って振り返ると少年がいる。少年は思わず駆け寄る。父親はしかし少年を抱きしめようとはしない。字幕が出て「アントワーヌの邂逅」だったかなそんな文字が出る。まさしくこの映画は「大人は判ってくれない」を意識している。
この二度目の父親との邂逅シーンは僕は少年の幻想ではあるまいか、とも思っている。普通の映画ではここで泣き崩れる父親と少年とをカメラは引いて終わるであろう。しかしこの映画はそんな安直なことはしない。
挙動不審で警察に捕まり、警察も少年を本当の意味で助けようとはしないで、通常の事情調書で済ませる。社会も大人もみんな冷たい。少年は警察から抜け出し、あてもない流浪の旅に出るしかない。坂を登る薄汚れた赤いTシャツの後ろ姿はいかにも寂しい。哀しい。しかし、どこか社会への、僕らへの、大人への怒りがその小さな背中にうずくまっていることに気づく。
エンドクレジットが出てもしばらく席を立つことができない。ぬくぬくの映画椅子に座っている僕たちにこの映画は冷たい水を浴びせかける。強い映画だ。秀作。
不必要なセリフは一切ない。観客は小柄な少年をいやというほど注視させられる。17歳の少年が電気・ガス・水道を止められ母親の面倒まで見れるのか。少年の目には優しさが当然なくなっており、厳しい目つきが座っている。
母親は去って行った男(父親)の苦渋の思いを子供に垂れ尽くし、あっけなく死ぬ。少年は金がないのに入院費や葬式代まで工面をしろと周囲の大人から突き付けられる。社会は何もしてくれない。少年は前を見ることができない、、。
観ている間、【トリュフォー】の『大人は判ってくれない』と【是枝裕和】の『誰も知らない』をずっと感じている。音声が一切なく、北欧のドグマ映画にも似ている。タッチはダルデンヌ兄弟風でもある。
単調なリフレインを外れると、母親の病室か、小さな船で東京の父親を思い浮かべるシーンが出現する。ああ、哀しいと思う。17歳の普通だったら一番盛り上がっている年齢なのに、少年は今にも難破船で喘いでいるかのようだ。
やはりお金は一番重要だというこの認識は悔しいが正しい。幾ばくかのお金は生きている間は絶対必要なのだ。朝起きた時からお金がなければ人間は生きていけない、のが真実だ。
優しい少年なのである。いつも行っていた小さな夢の空間、小さな船に死んだ母親を運び、そこで自分も生まれ落ちた姿の真裸になり、母親の死体に付き添ってあげる。何と美しい映像であることか。そして少年はそのまま、母親を水葬する。
その後やはり気になる父親に会いに行く。ところが父親は新しい家庭を気にしているのか、ずっとそんなところにいると警察を呼ぶよ、と息子に告げる。絶望に追いやられる少年。赤いTシャツの後ろ姿がいかにも哀しい。
と、翌日だろうか、父親が気になり息子の居た家の前に出てくる。いないなあと思って振り返ると少年がいる。少年は思わず駆け寄る。父親はしかし少年を抱きしめようとはしない。字幕が出て「アントワーヌの邂逅」だったかなそんな文字が出る。まさしくこの映画は「大人は判ってくれない」を意識している。
この二度目の父親との邂逅シーンは僕は少年の幻想ではあるまいか、とも思っている。普通の映画ではここで泣き崩れる父親と少年とをカメラは引いて終わるであろう。しかしこの映画はそんな安直なことはしない。
挙動不審で警察に捕まり、警察も少年を本当の意味で助けようとはしないで、通常の事情調書で済ませる。社会も大人もみんな冷たい。少年は警察から抜け出し、あてもない流浪の旅に出るしかない。坂を登る薄汚れた赤いTシャツの後ろ姿はいかにも寂しい。哀しい。しかし、どこか社会への、僕らへの、大人への怒りがその小さな背中にうずくまっていることに気づく。
エンドクレジットが出てもしばらく席を立つことができない。ぬくぬくの映画椅子に座っている僕たちにこの映画は冷たい水を浴びせかける。強い映画だ。秀作。
これは楽しみになりました。
是非、参考にさせていただきます。
結構好き嫌いが分かれる監督かなあとも思いますが、是非機会があればご覧ください。
それでは、また。