今年の芥川賞の作品である。風貌から生い立ちから文体まで随分両極端のお二人で、それだけでまず話題になったことは間違いない。だいたい僕は芥川賞に感心はそれほどでもなく、通常は作品を読むことはないのである。ところが今年に限っては読んでみたくなった。やはり西村氏の賞獲得という触れ込みが原因だろうが、何となく気になるオッサンなのである。
作品の方はというと、「きことは」とは貴子さんとと永遠子さんとの合成語らしい。まあ洒落でもないだろうが、随分大胆な題名ではある。読んで思うのはひらがなの文章がどんどん続き、しかもピリオドはあるのだが、余白がなく延々と活字がページを覆っているのである。これは明らかに作者の意図であり、そしてイメージ的には散文ではなく、詩のようでもあった。
25年間の時間の溶解、夢のようなたゆたう流れ。ストーリーがそれほどあるわけではなく、いつの間にか物語は終わる。男の僕にはまずひらがなだらけということで疲れてしまい、作者の企みにはまってしまう。この文体は時間を遠く遡り平安時代の女流作家にまで辿っているような錯覚まで覚えてしまう。記憶と覚醒の文学と言っていいのだろうか、読者とは距離を隔する作家の余裕すら感じてしまう。かなり好き嫌いがはっきりする作家であろう、と思う。
対して西村の小説は時給800円ぐらいで肉体作業でその日暮らしを続ける若者の話。彼はこれを私小説という。私小説とは一体全体なんだったけ。作家の身の回りの物を題材に描く、これが私小説だったかなあ。でも、小説だから本当のことは別に書かなくてもいいわけで、身の回りらしく書けば私小説になったりもする、といったのが僕の私小説に対するイメージである。
作品の方はまず20歳ぐらいの若者の朝立ちから始まるのでちょっと驚きもする。特に女性は何のことだろうと引く人もいたり、興味深深の人もいるだろう。それほど男の生きざまがリアルである。しかしよく見ていると、初めて出来た友人である仕事仲間の彼女を肺病病み似のブス女に見立てたりして、意外と自分自身を陥らせることなくしっかりガードし、奮い立たせているのである。
そういう意味ではこの私小説は日本文学お得意の自堕落・自己凋落型の破滅型でもない。ただこの話の設定は20年ほど前でありバブル期である。その時でさえ日雇い生活を続けていた若者たち。現代ではその層も膨らんできており、日雇いの職自体がなくなってきているので現代を書かせればどういう話になるのだろうと、こちらの小説はこれからも気になることは多い。
まあ文壇も、どう考えてもこのように水と油の作者を同時受賞させるなんてなかなかしたたかですなあ。西村の方は意外と結構売れているらしい。でも彼ももう40代。この受賞で生活そのものが変わるのかどうか。彼は朝吹と違いひらがなどころかなるべく漢字にしたい性分らしい。読めない漢字がいくつもあった。拘り屋である。とにかく両者面白い取り合わせだ。今の文壇と世情を眺めるに、なかなかヒットな受賞であります。
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