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2010 ドキュメンタリー部門最優秀賞 特集番組「二本の木」を見て

2011-07-13 15:31:52 | 徒然に、、

遅らばせながら、老夫婦のがんとの闘病と愛、そして真摯な命を綴った朗読ものでもあるドキュメンタリー番組録画を昨夜をやっと見る。

主に妻が肺がんで倒れ妻を送るまでの夫婦の心情を綴っている。がんが分かってから1年9カ月の命を妻は全うする。がんの種類も小細胞肺がんという急性で性質の悪いものであった。そのうち夫も自身が胃がんであることが分かり、妻の後を追うように6カ月でこの世を去るのだ。

実に壮絶ながん闘病記であると同時に、これ以上ないほどの夫婦愛に包まれたいい男女なのだ。こんな夫婦の下に生まれたご子息たちも実に幸せだろうなあとふと僕は思ってしまう。

夫婦愛もさることながら、やはり一番印象に残ったのは、妻の最後の方の言葉であった。「病気になっとはいえ、こんなに自分の体が動かなくなるということは想像さえしなかった、、。」

この一言は本当に考えさせられる。ある意味、医学の発達のせいか、入院をしなければ人間は死ねなくなっているような気もする。末期がんの治療を過ぎた何というのだろうか、死ぬまでの延命の医療はもはや家庭では出来なくなっているようでもある。

はるか昔、西洋医術も漢方もない例えば平安時代辺りは、人間は医者から死期を告げられることは勿論なかった。

がん宣告はすなわち僕は一瞬だろうけれどそれは死刑宣告に近いと思う。(もちろん今では完治するがんもあるだろうからそれほどでもないが、、)罪を犯した人が死刑宣告を受けると同じく、通常の人間が死刑宣告を受けるのだ。何と酷なことか、、。

文明の発達、文化の発達、情報の発達、また医療の発達等で人類はさまざまな恩恵を受けて来た。しかし、例えば平安時代の人間と比べて、本当にどれだけ幸せな時間を持つことができたのだろうか、、。

少なくとも死期を知ることなく死んでいった人たちの方が僕は幸せだったのではないか、と考えるのである。こんな純粋な夫婦愛のドキュメンタリーを見ていてこんな風に考えてしまう僕もちょっと変だなあとは思う。ただ確かに言えることは、死を告げられるということは希望がなくなるということでもあるのだ。そこに一瞬の絶望が入り込む。キルケゴールは言う。「死に至る病、それは絶望だ。」

ただ、ちょっと前のようにがん告知をせずに悶々と猜疑心を持ったまま死んでいった人も多かった時代。(実際は現代でもまだあるのかもしれないが、、)自分の死(生)を知る権利があるのはもちろん当人でなのであるが、周囲から嘘で塗り固められた病名のもと、死んでゆく人が多かったというのもたまらない気もする。

ただ僕の言いたいのは文明の発達に伴って便利さと引き換えに失ってきたものも本当に実に多いのだということなのだ。

いろいろ考える。季節は真夏である。


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