マリックは恵まれている。彼の映画に関係したい俳優・スタッフは多く、ファンだってマリック病を自ら取り入れ、映画館のみの患者となっている人も多い。それだけ過去の映画にすこぶる魅力のある人なのだろう、けれどこの病気は蔓延することはない。
彼の映画の魅力はほとんどが自然光で撮られた映像美である。今回は冒頭から恥ずかしくも日本人がフランス旅行で耽溺するというモンサンミシェルから始まっている。その意図が少々僕にはあざといとも取れる。しかしさすが映像は永遠を感じるほど美しい。美しすぎる。
セリフが全編ない。登場人物を説明するのは、移ろいゆく愛を感じ取る男女の二人の交互モノローグである。これが睡魔の行方を果てしないものにしてゆく。
男と女の愛と、愛と思っていたものがふとなくなる、それは幻想。愛と同じく生きる上で神父の糧であった神の存在。神は神父の周りにさえ現れはしない。神の不在。それも幻想ではないのか。
人間は愛を得たように勝手に幻想し、生活し、生き、そして死んでゆく。時間の長短だけが各人に与えられたアイテムであり、人間は収束に向かってただただ日常を生きる。生きていると思っている。生かされている。
マリックにとっては人生上のすべてが分かってしまっているのだろう。それが正しいかどうかは別にして、彼は自分のその些細な人生観を映画として映画ファンに提供する。そもそもそのことにどれだけの意味があるというのか。
相変わらず間違って入ってしまった一部の観客のいびき・寝息の洪水がこの作品のイメージをかなり損なっている。でもマリック自身、セリフを排除し、モノローグで映像を進めていく展開にこの現象は予測済みなのであろう。彼にとってはそんなことどうでもいいのである。
寡作で有名な、まだ何作目かの作品だが、最近はそれでも頻度が高いように思える。あまり見たくないマリック映画だが、それでもこうしてまた見てしまう僕もしっかりマリック病を患っているであろうか、、。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます