鹿児島市の天文館近くの中町に、俊寛の碑があります。
平安時代末期、俊寛は平家を倒すため、京都の鹿ケ谷で会合をしていたことが発覚し、平清盛に捕らわれました。
治承元年(1177年)、鹿児島県の南の島、硫黄島(鬼界島)に流されました。
中町のビルの谷間にある「俊寛之碑」。
そのとき船出したのが、この辺りなのです。
明治31年ごろ埋め立てられるまでは堀があって、俊寛堀と呼ばれていました。
俊寛が流された硫黄島の港。
恋人岬から眺めたものです。
集落は、この港周辺だけです。
俊寛が住んでいたお堂。
港から離れたところにあり、当時は地の果てに流された心境だったでしょう。
港にある俊寛の像。
一人だけ赦免が許されず、船を追いすがる姿です。
前の写真とこの写真は、以前「硫黄島」という記事でUPしました。
平安時代末期、俊寛は平家を倒すため、京都の鹿ケ谷で会合をしていたことが発覚し、平清盛に捕らわれました。
治承元年(1177年)、鹿児島県の南の島、硫黄島(鬼界島)に流されました。
中町のビルの谷間にある「俊寛之碑」。
そのとき船出したのが、この辺りなのです。
明治31年ごろ埋め立てられるまでは堀があって、俊寛堀と呼ばれていました。
俊寛が流された硫黄島の港。
恋人岬から眺めたものです。
集落は、この港周辺だけです。
俊寛が住んでいたお堂。
港から離れたところにあり、当時は地の果てに流された心境だったでしょう。
港にある俊寛の像。
一人だけ赦免が許されず、船を追いすがる姿です。
前の写真とこの写真は、以前「硫黄島」という記事でUPしました。