終末の過ごし方。
当時はまだ大学一年だったが、あまりにナイーブな評価を見て呆れた。
死んでじゃうんだから死に物狂いで・・・問題が大きすぎて実感が湧かない。何をしたらいいのかわからない。
そういう存在だって当然のようにいるだろう。
あの地震の時、堤防で津波を見続けて飲まれた人も少なからずいる。いつが「その時」なのか。あの堤防を波が超えることがあったらおしまいだ、という感覚があったらしい。
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さて、前日に引き続き「沙耶の唄」のことを書くとしよう。二つの問題がある。
まずプレイヤーに関して。
キャラというものは作者の手駒である、という感覚が決定的に欠落している。
この前のもやしもんで言うなら、武藤という人物がいて地ビールの評価を話すのではなく、作者が話させているのである。
「こころ」の先生やK,カラマーゾフのイワンやスメルジャコフ。そういう役割を振られているからそういうふうに振舞 . . . 本文を読む
(登場人物) タラーブルス=T サイダー=S
結果からの逆算。プレイしてる時ってそんなことを考えてもいない。次々と現れるセカイやセカイとセカイの繋がりがおもしろくてしょうがない。
統計によれば虐待をする人間の62.8%は実母。血の繋がっていない継母が同姓の子を陰湿に虐める・・・というのはイメージしやすい。身近に自発的でない理由で他人がいるから。だ . . . 本文を読む
量子論の話でしばしば引き合いに出される「シュレディンガーの猫」。そういった用語を使いつつ「沙耶の唄」という作品の作者の認識がなぜ時代錯誤であるかを説明する・・・それがこの覚書の意図だった。
少し具体的に言えば、「観測者としての限界」・「人の認知限界」は今日的にはほぼ前提に近いものであって、しかしそれにもかかわらずコミュニケーションが成立してしまっている、世界が回ってしまっているこ . . . 本文を読む