「それぞれの孤独のグルメ」への違和感から考える、その「偉大なるマンネリ」について

2024-11-21 17:55:56 | 感想など
ふとネットニュースを見ていた中で、孤独のグルメのスピンオフにあたる「それぞれの孤独のグルメ」に関し、松重豊演じる主人公の井之頭五郎がほとんど登場しないことに関する不満が続出している、という記事があった。
 
 
その後で感想サイトなどをいくつか見る限りではダイレクトにこれに言及したものがなく(ただ「これじゃない感がある」といったコメントは散見)、どの程度一般的反応なのかは掴みづらいところではある。
 
 
ただ、前掲の記事では、松重豊自身が監督を務める劇場版について、「ラブストーリーを入れたい。自分がラブストーリーのセンターに立つのではなく、ラブストーリーを主軸にしたい。あと大冒険ものにもしたい」と語っており、こちらも普段とは違うテイストの作風になるようだ、とも述べており、一体何がそれらの違和感を生じさせるのか、あるいはそこからドラマ版孤独のグルメ(以下「孤独のグルメ」で統一)に求められているものは何なのか、ということを徒然なるままに書いてみたいと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
なお、私自身は漫画版2巻分(以下「原作」と表記)とドラマCDの一部音声、またドラマ版をアマプラで複数話見ているのみで、「それぞれの孤独のグルメ」は視聴しておらず、劇場版については(まあ1月公開だから当たり前だが)広告を見ただけの状態である。ゆえに、今回の記事で「それぞれの~」の内容を批判することは意図しておらず、あくまでそこへの(一部の)反応を軸に、孤独のグルメの特徴を改めて考え、そこからロングランとなった背景を考えることが目的である。
 
 
さて、回り道は抜きに結論から言えば、孤独のグルメが広範な支持を得てロングランとなった主因は、「日常に片足を置いているという安心感と、非日常に一歩踏み出すワクワク感の同居・両立」であり、それが「偉大なマンネリ」として確立されたことだと私は考える。
 
 
井之頭五郎は、確かに毎回新たな店を開拓しており、それが物語の軸になってはいる。しかし彼がそれを行うのは、あくまで仕事(か知り合いの依頼)の「ついで」である。つまり、物語の前半パートはビジネスシーン(と言うには結構くだけているが)であって、そこで見知らぬ土地や久しぶりに訪れた駅に身を置く中、空腹となって新しい店をその足で探すという展開になっている。
 
 
なお、「見知らぬ」とは言ってもごくありふれた商店街や都市部であって、異国情緒あふれる全く知らない世界という雰囲気ではない(まあ群馬県大泉町の回は出稼ぎ労働者が多いという話も出るが、町の特徴を表す一種の符牒・スパイスのレベルであって、全くの別世界という感じではない)。
 
 
つまり、仕事の延長であるため、新しく訪れた土地も日常を大きく脱却するものではない。しかし一方で、新たに開拓される店については、もちろん演出もあるだろうが、美味そうな料理も相まって、「新たな世界=小宇宙」を形成しているように感じられる。そしてそれを十二分に体感した彼は、満足しながらまた日常の世界に帰っていく、というのが孤独のグルメの典型パターンと言える。
 
 
これが先述した「日常に片足を置いているという安心感と、非日常に一歩踏み出すワクワク感の同居・両立」であるわけだが、このような特性を鑑みた場合、主人公井之頭五郎を演じる松重豊の朴訥な佇まいが、実は極めて大きな役割を果たしていることに気付かされる。
 
 
確かにモノローグでは彼なりの憧れや不満は出てくるものの、それを相手や視聴者に強く押し出すシーンは基本的にない(まあ初期の頃とかを見ると、今の目線ではいかにも昭和の脚本家が思い出補正でセリフ作ってそうだなあという部分も散見されるが)。しかし、そんな一種「柳」のような彼が、ひとたび空腹を実感するや、一瞬の棒立ちの後、突如韋駄天のように(大げさ)自らを満たす安寧の地を求めて彷徨を始めるのである。
 
 
ともあれ、こういった彼の脱力的佇まいが、前半の日常(仕事)パートと後半の非日常(開拓)パートの橋渡しを容易にし、受け手は力むことなく非日常へと勇躍することを可能にしているのではないだろうか(注)。そして、井之頭五郎を巡る周辺の人間関係は、(水戸黄門やサザエさんなどと同じ事情ではあろうが)特に大きな変化をすることもなく、先の述べたパターンがずっと繰り返されるという構造になっているのである。
 
 
以上のように考えてみると、「それぞれの孤独のグルメ」に対する違和感や、雰囲気の異なる劇場版への一種の懸念というのも、ある程度必然的なものに思えてくる。
 
 
例えば井之頭五郎が不在ないしほとんど姿を見せないことが違和感に繫がっているのは、単に彼が主人公であるというだけでなく、そのあり方(佇まい)が孤独のグルメを堪能する上で必要不可欠な要素だからだ。もちろん、類似の振る舞いを他の演者がすることは可能だろうが、ここまで確立された雰囲気・展開を超えるものにして(どうしても贔屓目があるため同等レベルでは満足されない)、「ああこれもアリだな」と思わせるのは、容易なことではないだろう。
 
 
さらに、劇場版での変更とそれへの懸念はいっそうわかりやすいものだ。まず、舞台がパリや韓国のような外国であったり(一応原作の5話とリンクはする)、あるいは五島のような離島であり、さらにそこを大冒険するということであれば、動機付けが仕事=日常でないだけでなく、非日常への飛躍もだいぶハードルが高いものとなっている(一応孤独のグルメには台湾編もあるし、愛知の日間賀島のような離島編も存在はする)。加えて、恋愛要素をしっかり盛り込むという話だが、それは「人間関係の劇的な変化」と言い換えることができるわけで、これも孤独のグルメにはないものとなっている。
 
 
言い換えれば、劇場版は孤独のグルメを構成していた、「安心して楽しむための土台」が二つとも脅かされた状態で展開されていると表現できる訳で、これでは懸念が出るのもむべなるかな、というものである。
 
 
もちろん、劇場版がそのようなテイストになった事情は理解できる。つまり、すでにドラマ版があるものをわざわざ映画にするのだから、企画書を通すためにも「ドラマ版との差違」を作らない訳にはいかないということなのだろう。また、どこまでが本音かは不明だが、松重豊自身がドラマ版について、「おじさんが一人で飯を黙々と食べているのの何が楽しいのか」という趣旨の発言をしていたという情報もある。これをリテラルに捉えるなら、彼は前述した「偉大なるマンネリ」の構造に気付いていないと予測される。仮にそのマインドのままいるのだとすれば、自身がメガホンを取るにあたって、そこに「自分が楽しいと思うような要素」を詰め込んでドラマ版と違うテイストのものにしようと考えるのは、自然なことと言える(付言しておくなら、スポーツで名選手=名監督とは限らないのと同じことで、名優即ち名監督とは限らない)。
 
 
ともあれ、その結果として劇場版が自身の最大の持ち味を消さざるをえなかったのだとすれば、極めて皮肉な話ではある。まあその答えは公開後とその評価でわかることだろうが・・・
 
 
ということで今回の記事は以上。人目を引くためには、つい刺激的な要素や追加要素が必要だと思いがちだが、孤独のグルメはそもそも日常から非日常へのささやかな飛躍を力まない姿勢で演じていることが「偉大なるマンネリ」として長い人気の秘訣となっていると考えられるので、そのような変更は諸刃の剣になる可能性が高い、述べつつこの稿を終えたい。
 
 
 
 
(注)
ちなみにこの点で原作の人物像との大きな差違・改変は見逃せない。というのも、原作における周囲の人間に対する眼差しや論評からも明らかなように、そこには明らかに日常世界へ生きる人々への冷ややかな・・・という表現がいきすぎであれば斜に構えた視点が根底にある。
 
そこには、作中で描かれるのが(ドラマ版と同様に)よく知った世界ではなく初めて訪れる街やよく知らない場所であり、また新しく開拓した店で見かける人たちをよく知らないからこそ(昼間から飲んでいるこの人たちは一体何をして生活しているんだ?etc)、その来歴はどのようなものかというモノローグには、自然「詮索」的なテイストが入ってしまうという事情はあるだろう。
 
また、主人公自身が日常生活的なものを軽視している(非日常に高い価値を置いている)というわけではなく、確かに何かに縛られることを厭うような発言は見られるが(吉祥寺編における特定の事務所を持たない理由の述懐)、それでも原作の第5話ではパリでの生活=非日常を拒否した話が出てくるように、今の主人公の世界は自動的=惰性の産物ではなく、選択された日常であることも暗喩されている。
 
しかしそれを差し引いても、原作の主人公がどこか社会から一歩身を引いたような佇まいをしているのは、おそらく話の内容的にバブルの熱狂が残存する世相(ちなみに雑誌掲載は1994~1996年)とのギャップを踏まえてのものではないかと思う(あまりピンと来ない向きには、この時期に濫用された「レジャー」やら「リゾート」やらで名指されたものの数々と、原作における主人公の行動のギャップを比較してみるとよい。なお、スキーリゾートブームを見越した「私をスキーに連れてって」が公開されたのがバブル期の1987年であり、バブル崩壊は概ね1991年頃とされる)。
 
ただ、もし仮にこの雰囲気をそのままお茶の間に導入していたら、決して今のような支持は得られなかったものと思われる。なぜなら、仮に井之頭五郎が日常=お茶の間を否定・揶揄するような発言をしなくても(演出上カットしても)、その雰囲気が半ば世捨て人的であり、そのような佇まいには心情的に乗ることが難しい人が多かったと思われるからだ(逆に、日常の諸々を「束縛」と捉え、なるだけそれらに縛られずに生きたいというマインドの人間にとっては、ドラマ版より好評を博したかもしれないが)。
 
その意味では、長嶋一茂ではなく、より「枯れた」雰囲気の強い松重豊に、原作より脱力的なキャラクターで演じてもらうという戦略は、ドラマ版がロングランになる上で極めて重要な要素となったのではないかと予測する。

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