終末の過ごし方。
当時はまだ大学一年だったが、あまりにナイーブな評価を見て呆れた。
死んでじゃうんだから死に物狂いで・・・問題が大きすぎて実感が湧かない。何をしたらいいのかわからない。
そういう存在だって当然のようにいるだろう。
あの地震の時、堤防で津波を見続けて飲まれた人も少なからずいる。いつが「その時」なのか。あの堤防を波が超えることがあったらおしまいだ、という感覚があったらしい。
日本人には馴染みにくいだろうが、「約束の時がきた」と祈りをささげ続ける人たちも当然いるだろう。
てめえら一般市民が動いてどうにかなる「終末」なんぞとっくに国家レベルでどうにかしとるわw
何のためにラジオを通じて暴徒のことが批判的に言及されているのか。
アルマゲドン的思考への埋没を見た。あるいは自由意思信仰(信じれば叶う)。知性や責任感によってむしろ破滅へと向かっていくオイディプス王でも一度読めよ。
エンターテイメントとして問題がある、というのならわかるけど、その場合は「そもそも人が当たり前だと思っている内容を志向していない」というので結論。要するに狙いが違う。
ちなみに「デスノート」の記事とか見てエンターテイメント嫌いと思っている人がいるかもしれんが、俺が嫌いなのはエンターテイメントそのものではなくエンターテイメントしか受け入れられない人(の閉塞した想像力)なのだ。
一つ一つのシナリオが納得に満ちているか・・・と聞かれれば首を傾げる。緑、兄貴?、パン少女、校医。
こういう状況や姿勢に対する理解があった上で「ぼくらの」を支持するのならわかるが、それなしでなら・・・何とも恐ろしい限りではないか。
東の発言は今さら。
震災の後に掲載したのは終末の過ごし方。あえて皮肉を込めた言い方をするなら、その批判に立ち向かうのが当然であるというアルマゲドン的思考への頽落を見たのであった。なぜ暴徒が風景としてしか描かれないのか?情報に耳を塞いでる姿を見ていると、この作品を思い出す。あれは情報さえも限定された極限状況ゆえの同情あり?しかしこちらは喜劇として。今の私たちの縮図(私たちの方がダメなのは言うまでもない)。特定の基盤がなければ持続できないものと気付いているのか?もはやあの作品を嗤うことなどできない。
非日常の中でありきたりの関係(日常)が輝いて見え始める。もっとも、カタストロフが見えないがゆえにそういう実感が持ちにくいという見方もある。そこは状況が見えたら立ち向かい方に意識が行ってしまうこと、何もわからないという閉塞感・絶望感の演出とのバランスが難しい。春休みに逃げる、逃げないの選択(会社早閉有時間ツイッター)。俺はあえて逃げない。それはよろしい。個々人の自由だ。しかし逃げる人々を批判するのは一体どういう了見なのか?その批判が支持されるのはどういうわけなのか?結果オーライにすぎん。そのファナティックな様子を見て、戦前と同じだと思った。
「行動しようよ」とは何なのか?震災の例で言うなら、原発のとこに行って何かやるのか?それとも政府に対して暴動でも起こす?政府は頑張ってるから…大事なのって「頑張ること」なの?もちろんこれは皮肉を込めた発言だが、今みたいな話ができるのも、ある程度の情報があるからだ。震災時、現地では「とにかく情報がほしい」という声が聞かれた。終末では、それがずっと機能していない。そんな状況で何をどう行動するの?情報があってさえ耳を塞いでしまう状況。行動しないのが正しいと言ってるのではない。そのような見解に短絡さ、ナイーブさを見ているのだ。
人によっては、私が終末を称揚する理由を、私のエンターテイメント嫌いに帰するかもしれない。しかしそれは誤りである。もし私が嫌うものがあるとすれば、それはエンターテイメントしか受け入れられない人間(の閉塞した想像力)であって、エンターテイメントそのものではない(ここで言うエンターテイメントとは、「視聴者の価値観を侵食しない作品」程度のもの)。私は中華料理は嫌いなので受け入れられない、と言うのであれば納得できる。私がしばしば首を傾げるのは、不快の意志が表明される時、そこに理由が付されないことである。ゆえに終末の場合、アルマゲドン的視点への埋没を疑うわけである
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