私は沙耶の唄が「恋愛モノ」だと評価される必然性を繰り返し説明し、むしろそれに驚く作者こそ内容や表現形式への自覚が足りないのだと述べてきた(「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」~「異物に対する同一化傾向」)。
ところで、前にYou Tubeの動画コメントを見ていた時、「郁紀は前と同じように耕司たちと接するべきだった(should)」という意見があってなるほどと思った(なお、SONG OF SAYAのものを始めとして「交換可能性」を肯定するor否定するという二つの意見に大別される)。なぜなら私は、知覚に異常をきたした結果彼らを汚物のように扱うようになった郁紀の態度を自然なものだと思ったからだ。
一体こいつは何を言っているのか?とあなたは訝しがるかもしれない。しかしこれは単純なことで、人間がモータルな存在であるがゆえに不死を望むのと同じく、人は不可能であるからこそむしろ希求することがしばしばある、という考え方に基づいている。「現実→理想」というより「理想→現実」という点で思考過程に違いはあるが、「理想と現実」という表現がとりあえずわかりやすいかもしれない(例えば「武士の一分」という映画では、盲目になった夫に献身を続ける妻の姿が描かれているが、離縁されてもなお・・・という点を鑑みればあれがあくまで理想形として表現されていることは疑いない)。別の言い方をしよう。もし知覚という文脈が変化しても評価や態度は変わらないのが当然だと思うなら、「郁紀の態度の変化は奇妙だ」という批判になるはずだ。にもかかわらず「すべき」という表現を使っているのは、それが不可能性の認識=断念に基づいていることを示しており、先の二つの見解は真逆のようで実は前提を同じくしている、ということだ。
もっともこれは理屈に偏った話で、そんな図式が一般化できるほど世の中単純ではない。たとえば「道端で倒れて苦しんでいる人がいるなら声をかけてあげるべきだ」と言う時、その行為が不可能だからこそ理想的な行いだと言っているわけではないだろう(ただし、戦場などに状況を設定すると話は変わってくるという具合に、文脈依存的なものでしかないが)。それを承知の上でこんな話を持ち出したのは、そのような相対化や断念なしに規範が単純な「真理」としてナイーブにも前提化される=価値転倒がしばしば起こりえるからだ。たとえば、私が自然な「共感」という言葉を使うのは(実際の)機能・効果の面で有害だと繰り返し言っているのはそういった認識に基づいている。反発であれ好意であれ、沙耶の唄に対して感じる評価はそのようなバイアスを対象化させてくれる契機となるであろう(cf.「マーワラーアンナフル」)。
話を戻すが、映画の「es」や「the wave」などでも描かれているように、文脈によって人の感情や評価は変化するのが当然なので、私は郁紀が耕司たちを汚物のように扱うのを不思議だと思わない(ただしここで言う態度の変化とは、「服従と反逆」や「all or nothing」のように二項対立的なものでないことを強調しておきたい)。もちろん「郁紀の事を案じる耕司たちに対してあんな酷い態度を取るなんて許せない」と感じる人もいるだろうが、彼らの知覚は変化していない=非対称性に注意する必要がある(知らずにとは言え、耕司が改造された瑤を「惨殺」した件を思い出そう)。また、視覚・聴覚・味覚などあらゆる点で不快に満ちた世界の中で絶対的孤独を生きる郁紀が沙耶に惹かれるのも極めて自然なことであろうし、あれほど冷酷な言葉を投げつけた瑤に対しても人間の外見になったら態度が変化する(性愛の対象となる)のもごくごく当然のことであると考えるのである(cf.「極限状況での振舞に関して」)。 そしてまた、以前沙耶の唄と整形を結びつける話を用意していると書いたが、それは以上のような可変性、あるいは交換可能性という視点に基づいている。
このような見地に立つと、沙耶の唄を「純愛」の話であるとする評価は極めて興味深いものである(「沙耶=人間を写す鏡」という本編中の文言を思い出そう)。これまでの話を読んだ人は、「交換可能性」を是とする観点から単に「純愛」という評価を批判すると予想するかもしれないが、事はそれほど単純ではない。次回はその問題について論じていければと思う。
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