率直に言って、私は沙耶の唄が視覚的(直接的)にホラー作品として成功しているとは全く思えない。また沙耶の正体が実は・・・という認識による(セックスシーンなどでの)恐怖も、どういう意図か恋愛幻想を維持するような演出(cf.「二項対立と交換可能性」、「エンディングの『失敗』」)がなされていることによって、不徹底に終わっている。
むしろこの作品にホラー要素と呼べるものがあるとすればそれは以下のようなことであろう。すなわち、演出を少し工夫しさえすれば、理屈ではわかっていても容易に沙耶の側にコミットし、そのやり取りを恋愛だと感じてしまうのだということ。そしてそのような認識の構造を通じて我々が固有であると思っているものが交換可能なものにすぎず(cf.「人間という名のエミュレーター」)、また「真理」だと思っていることが実は恋愛「ゲーム」なのではないかという不安(あるいは気づき)をもたらすこと。そのような内省をもたらす部分にこそ、沙耶の唄の「ホラー」の真骨頂はあるのではないか。
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