「さよならを教えて」とその時代:社会問題、「癒し系」、電波ゲーという「毒」

2024-02-28 16:48:17 | ゲームよろず

 

 

「さよならを教えて」20周年記念トークショー!?コロナ禍にそんな素敵なイベントがうちの職場の隣駅=阿佐ヶ谷で行われていたとわ・・・知らずに過ごしたのは一生の不覚なり(´・ω・`)まあアフタートークなんで内容面に踏み込んだ話は無いけど、これは再販してくれたら買いたいわ~。

 

いやホント、コロナ禍で活動が制限されてる中、多くの人が何かしら記録を残しておこうとしてたんだなってのが後からでもわかるのは不思議な感慨がありますな・・・あ、どうもゴルゴンです。

 

さて、こないだ帰省した際に「ときめきメモリアル」だの「学校であった怖い話」だの昔のゲームの話を旧友としていたことにより、今の自分の視点がどのように構築されていったのかを言語化・明示化できたのは想定外の収穫だった・・・て話をしたわけだが、今回はそういう記事の一環として、「さよならを教えて」と「ONE」を取り上げつつ、それが今の視点とどのように絡み合っているのかを書いてみようと思う。

 

さて、現在の視点の構築過程ということで言うと、例えば「幻想の解体:宗教・思想・怪談」という記事では、「神の罰」とその背景(偶然性を必然性へと馴致するロジック)、偽史から読み取れる意図、都市伝説のエートスを、「人間の創作(幻想・妄想)分析」という観点で同列に並べて書いている(それらは例えば、毒書会で扱ったマンハイム『イデオロギーとユートピア』やアーレント『全体主義の起源』、レヴィ=ストロース『野生の思考』などへとつながっていくことになる)。またそこでは、そういった分析を自分がするようになった背景として小学時代の「宗教と思索」などを取り上げたわけだが、しかしよくよく考えてみると、これはどうも腑に落ちないというか、かなり牽強付会な説明であると感じていた。

 

というのは、中学時代の「嘲笑の淵源」などと同様に、そこから生まれた分析の視座がその後で一般化したわけでは全くなく、一時の感想に終わったことを明晰に覚えているからだ。なるほど確かに、「宗教と思索」も「嘲笑の淵源」も、自分の発想の軸にこういった宗教・社会への懐疑、人間理性への懐疑があるのだと説明するのがおそらく他人には理解しやすいのだろうけど、それは事実性を度外視して相手を納得させるためだけのレトリックのきらいがあり、その実は直接的な関係はほとんどないと言っていいだろう(もっとも、たいていの人間は複雑な実態よりわかりやすい結論を求めているものなので、仮に説明を求められたとしたらこれでよいのだが。ちなみにこれはものの考え方の違いであり、優劣の話ではない。喩えて言うなら、ゴリラが鷹の様態を愚弄するのも馬鹿げているし、逆もまた然りだ)。

 

というわけで、自分の発想法(メタ視点)に大きな影響を与えた契機となったものは何だろう?と考えていた折に、「学校であった怖い話」の構造とその反復プレイがまさにそれだと先日の帰省時に気付いた(アナロジーとしてさすがにおこがましいが、それはグリム兄弟が古い童話を集めていく中でその分析と構造化を行ったのと似ている)。

 

そして、その影響を説明する記事を準備する中で「学校であった怖い話」関連の動画を検索していたら、実はPCゲーム版の「学校であった怖い話」つまりアパシーシリーズの後にも動画やゲームが色々出されていたことがわかり、それに触れることで、また新たな創作意欲が喚起されることになった・・・というのは先日書いた通りだ。

 

で、何でこれが「さよならを教えて」に繋がるのかという話だが、「学校であった怖い話」と近い時期にプレイした「ときめきメモリアル」を通じて、まず「相手に求めるなら、まず自分を磨け」という発想が当然のことだと思うようになった。それゆえに、後にプレイする諸々の恋愛ADV(「同級生」シリーズを始め「君が望む永遠」など)の構造について常に一定の欺瞞性を感じていたわけだが、ここから生まれる「泣きゲー」への距離感と、他者への都合の良い理想像の投影(押しつけ)の認識、そして「自己実現(という呪い)」という要素を組み合わせると、2001年に発売された「さよならを教えて」という作品の特徴にかなり近づいて来る。

 

まあこれらを全て製作サイドが意識していたというのはさすがに深読みし過ぎだと思われるが、とはいえ『さよならを教えて 設定資料&原画集』の冒頭にで作者の長岡健蔵は「企画の着手当時は、『癒し系』という言葉が流行し始めた頃でもあり、猫も杓子も癒されたがっていたようだった。だから僕ははっきりと『毒』を作りたいと思っていた」とコメントしていることは重要だろう。つまり少なくとも、当時隆盛していた泣きゲー(長岡の言葉では「癒し系」)へのカウンターという意識を強く持った作品だった、ということである。

 

ここで「さよならを教えて」が発売された2001年頃の世相を考えてみると、1990年代前半のバブル崩壊、そして1995年の阪神淡路大震災とオウム事件、1997年の酒鬼薔薇聖斗事件・・・といったことにより、1990年代後半は明らかに暗い影が漂っていた(この世相の変化を色濃く反映したのが岡崎京子の作風で、1989年から連載された『pink』はまさにバブルの狂騒的な世相を時にドタバタ、時にシニカルに描いていたが、1993年~1994年連載の『リバーズエッジ』は、殺伐とした世界に翻弄されるティーネイジャーたちの姿を描いている)。

 

しかし1999年にアンゴルモアの大王が登場して世界が終わる訳でも何かがリセットさえされることもなく、ゆえにその暗い影を負いながら生きていかなければならない(しかし今日・明日死ぬレベルではないため同情もされづらい)中で、一種の鎮痛剤として「癒し系」が求められた・・・大雑把に説明すれば、そのようなところだろう(まあそれを放置した結果の一端が、氷河期世代の問題なのだが)。

 

まあそういう余裕(社会のバッファ)がどんどんすり減っていくと、そのエートスを受け継いだ「日常系」作品と(その先駆けである『あずまんが大王』の連載が1999年~2002年)、そんなヌルいこと言ってるんじゃ死ぬぞとばかりのバトロワ系作品に二極分化し(『デスノート』の連載開始が2003年)、ゼロ年代を席捲していくことになるのだが(ちなみに先述の岡崎京子は、すでに1996年の『ヘルタースケルター』で殺伐とした世界を描きながら、その軸足を「サバイバル」に移したと思わせる展開を描いており、未完とはいえその先見の明に驚かされる。今まさに芸能界の暗部が様々暴き出されている折、ルッキズム批判など様々な要素含め再び注目されてよい作品だと思う。ただ、彼女の私が思う彼女の最高傑作は1992年の『秋の日は鶴瓶落とし』であり、ここで描かれるテーマが30年経った今でも全く同じように通じることこそ、日本社会の停滞を象徴しているとともに、このテーマを30年以上前でこれだけ端的に描き切ったのは、「鬼才」としか言いようがない)。

 

以上のような状況を踏まえれば、「癒し系」の流行と、そのカウンターとしての「さよならを教えて」製作という背景は納得できるものである。ただまあ当時は「泣きゲー」の絶頂期であり、かつ「君が望む永遠」「沙耶の唄」のレビューでも指摘したように、そもそもエロゲーユーザーの大半がそういうメタ的理解をしていたかは甚だ疑問であり、もって本作は大ヒットこそしなかったものの、「三大電波ゲー」と言われるなどカルト的な人気を得るにいたった。

 

夕暮れの時に気だるげさと不穏さの入り混じったBGMの中、横溢する文字列を前に果たして自分は正気でいるのかと追い詰められていく様は、没入感の強いビジュアルノベルというゲーム形式だから可能になるのであり、小説や映画、アニメなどではこの作品の魅力を十全に表現しえないという意味で、間違いなく記憶と記録に残るゲームの一つと言えるだろう(その意味では、他のメディアではその魅力を余すところなく伝えるのが困難な作品であり、かつ製作者がプレイヤーをある意味で過大に評価していたいう点でも、前述の「沙耶の唄」を思わせるところがある)。

 

・・・とここまで書いたところで、「私にとってのさよならを教えて」に何ら言及してないことに気付いたが、もう結構な分量になってしまったので、「ONE」と合わせてそこは次回の記事で述べることとしたい。


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