「セクシー田中さん」にまつわる問題について、日テレ側が状況の説明をし始めているが、予想通りというか、体裁だけ保って何とかやり過ごそう感満載である。
まあきちんと検証する意思があるなら、いつも不祥事を起こした企業に自分たちが要求している第三者委員会を自ら立ち上げるのが当然であり、それをやらない以上、単に面倒臭いと思ってることが透けて見え、その理由は「自分たちは被害者だ」と考えているからだろう。
その精神構造は、おおよそこんな具合ではないか。
そもそもさあ、「原作に忠実に作れ」て言っても、漫画を実写化するにあたって全く変えないわけないんだから、「その範囲内で原作に忠実」てことぐらい始めからわかれよ。ホンマめんどくさい作者やで~。巻き込まれてええ迷惑や・・・今までこのシステムで上手くいってたのに引っかき回しやがって・・・でも人が死んでるし、批判もスゲー出てるから対応するしかない。お前さえ余計なことをしなければみんな幸せだったのに!
て感じで。まあ当たらずとも遠からずってとこだろう。
ここで重要なのは、今回もまた、閉鎖的組織の構造が問題になっていることに他ならない。2023年は、大手マスメディアの隠蔽行為を始めとして、ジャニーズ、ビッグモーター、宝塚、ダイハツ、吉本興業と閉鎖的組織の腐敗が次々と明るみに出た(吉本も以前契約書の件で問題になりましたな)。そして今回は、契約書を取り交わさない口約束が、伝言ゲームやなあなあによる誤魔化しの温床となったらしいと明らかになりつつあるわけである。
念のため言っておくが、こういう仕組みが100%不合理とまで私は言うつもりはない。このようなやり方はある程度の共通前提があれば、ファジーさを残すことで柔軟に対応できる余地を残せるし、またそもそも合意に到達するまでの時間的コストなどを削減することもできる面があるからだ(つまり、ある時代背景の中ではそれなりに合理的だったということで、だからこそ発生・残存してきたのである。問題は、その仕組みが長期化して腐敗が拡大する中、もはや耐用年数は過ぎているのに「今さら変われない」と既得権益者たちの都合で延命されていることにある)。
しかし言うまでもないことだが、もはや価値観の多様化や社会の複雑化が前提となっている成熟社会に、そのような暗黙の理解や忖度を土台にした契約・関係性は馴染まない。なぜなら、コミュニケーションに齟齬が生じやすいのはもちろんのこと、それをそのまま押し通すことも許容されづらいからだ。
とするなら、テレビ局の視点で言えば、選択肢は二つに一つしかない。すなわち、「二次利用にあたっては徹底して厳密化した契約書を取り交わす」か「オリジナル作品しか作らない」のいずれかだ。もちろん、こういった問題は基本的に両極のどちらかに振り切れることはなく、どちらに傾くにせよその中間地に落ち着くものだが、ともあれ少なくとも、このままなあなあの仕組みを温存する道を選ぶのは現実的ではない。それは閉鎖的な組織とその腐敗に対する社会の眼差し(=批判の厳しさ)という意味でも、あるいは大手マスメディアの凋落(=剛腕で誤魔化し通せない)という意味でもだ。
さて、「契約書の厳密化」というといかめしいが、例えば「登場人物を増やしてはならない」とか、「セリフの改変については主要人物は不可で、それ以外については作者の了解を得ること」といった項目を入れるなど、方法はいくらでもある(いずれもテレビ局と芸能プロダクションの癒着を目的とした内容改変を防止するという意味合いがある)。
もちろん、そんな面倒なこといちいちやってられるかい!という声はあるだろう。そしてそう思うならば、言い換えればその程度の価値しかない作品か、あるいは価値があってもドラマ化などのハードルが高すぎる作品であるならば、その分は手ずからオリジナルを製作すればよいのである。おもしろいものを作る自信がおありなんだろう?じゃあ人のふんどしで相撲取らずに、ゼロから自分でやったらええやん。その方が「面倒くささ」も少ないんやろうし。つーか、人様が手塩にかけて作った作品で稼がせてもらっとる分際で、いっちょまえの口聞いとんちゃうぞゴラァ!!て話よ。まあ凋落著しいおテレビ様が、どんだけやれんのかお手並み拝見といこうじゃあないか(・∀・)
ちなみにこれについては、前に書いた「関係性の契約化」ともリンクしていることは指摘しておきたい。そこで言及したのは個人間の話であったが、ともあれ価値観の多様化・複雑化と告発の奨励の中で、「まあこれぐらいいいだろう」というファジーさが通用する領域はどんどん狭まっていき、それが正義や公正のためというより、リスクヘッジのために好まれるようになるだろうと書いたものである。
今回の作品に関する契約(書)も同様である。これは出版社やイラストの依頼など様々な領域で、そもそも事前に金額を含めた明確な契約書を取り交わさないことも多いと聞く。しかしそれによりトラブルが多発するなら、契約を取り交わす煩わしさよりも、トラブル処理の煩わしさが勝り、結果としてそれらを重視せざるをえなくなるだろう(少し別の角度で書けば、アメリカ的な契約社会を理想視してそれを目指そうという話ではなく、そのような形態を取らないとお互い不利益になりかねないから合理的・戦略的に欧米的な契約の厳密化を図らざるをえないのでは?と言っているのである。この点では山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』などが参考になる)。
そう言えば、来年から共通テストの国語では契約書を含めた「実用的な文章」なるものが出題されると聞くが、こういった社会情勢を踏まえると、実にタイムリーな話ではある。今回はテレビ局側から見た契約(書)の話にフォーカスしたが、作家に対しても、自衛の意味で、少なくとも映像化など二次利用にあたっては、弁護士を通じてやり取りすることを奨励していった方がよいという教訓を残した事件なのではないかと思う。
以上。
ちなみにこの日テレの発表とその意図や契約の構造について、もっと詳しい分析を見たいという人は以下の動画などが参考になるだろう。
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