価値観の多様化と「共感」

2007-06-28 01:54:31 | 抽象的話題
社会の中で選択肢が数多くあり、かつ選択することが奨励されてもいるならば、ものの考え方や見方が多様化するのは必然である。そうすると当然、価値観などを一元的に理解することは困難になる。ゆえに昔のような親和性の高い社会を理想化したり、そのマインドを現代に持ち込もうとしても、うまく機能するはずがない(選択の幅が狭い社会に逆行できるのならそれも可能だろうが)。とすれば重要なのは、「共感」といった精神的癒着などではない。「共感」を否定するとすぐ個人主義や無関心を想起する人がいるかもしれないが、実際には他者を他者として境界を認識し、その上で理解しようとする姿勢こそが必要とされているのである。


過去に答えを求めるのは容易だが、現在の状況も考えずに移植しようとするなら重大な過ちを犯すことになるだろう。


思うに…
「共感」などとうそぶく人間は、相手のことを思いやっているようで実は相手の事を冒涜している。というのも、感情、いや感覚の一部でさえ人生経験に伴って形作られた人格より生まれてくるのだが、それを自分のものとして(完全に)感応できた、というのが「共感」だからである。「共感」を理想的状態のように捉える人間は、「おもしろい」という言葉一つとってもどれほどの揺らぎや深みがあるのかを考えたことがあるのか、私には大いに疑問である。異なる経験を生きていれば、評価も、そして言葉の中身でさえも異なってくるのは必然なのだが、「共感」を理想として捉える人は、おそらく相手の感情や感覚がわかるのが当たり前だと思っているのだろう。自分の感情や感覚の中身や原因さえ明確にはわかっていないにもかかわらず、だ。まあ本当に「共感」とやらができる人間は、生霊を降ろすシャーマンにでもなるのが得策だろう。


思うに…
日本語の乱れが叫ばれて久しいが、上記のような価値観の多様化といった状況を考えると、別の意味で日本語は深刻な問題に直面しているのかもしれない。というのも、多様なものの考え方・見方をする社会にファジーな言語はそぐわないからだ。
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