「ひぐらしのなく頃に礼」は新作が二編収録されており、今日の朝「賽殺し編」(以後「賽編」)を終わらせた。今まだ「昼殺し編」をプレイ中だが、とりあえず先にレビューを書いておこうと思う。
賽編の世界は祭囃し編(以下「祭編」)が終わった直後の世界が舞台だが、まず最初に指摘しておきたいのは、この賽編はひぐらし本編をプレイしている中で色々な問題意識を持ってなければおそらくつまらないということだ。例えば、「過去の事実は付いて回るのであり、なかったことにはできない」という私の考え(※)。これは沙都子の「罪」の問題や祭編の大団円に対して抱いたものだが、それあればこそ「昔の罪を乗り越えたからこそ今がある」という最後の方の圭一たちのセリフが生きてくる(問題意識なしだと単なる奇麗事で終わりだろうが)。これはまた、ひぐらし製作側の「罪」に対する明確な立場表明とも言えるだろう(なお、乗り越えてない沙都子は普通にムカつくガキだw)。また「罪」に関しては、例えば祭編で沙都子が両親を殺したのに生き続けていること(それについてはこの記事のコメント欄を参照)、鷹野が死なないこと、また厳しい見方をすれば悟史が死んでいないことも、「罰、報い」という点で疑問を持ったプレイヤーがいたのではないかと思う。そしてそれに対する答えも、「生き続ることが戦い」、あるいは「背負い続けることで償え」という(穢れを背負って死んだ)羽入と梨花の会話からわかる。これに対してどのような反応をするのかはもちろんプレイヤーの自由だが、ひとまずひぐらしの態度表明がそういう内容であったことは強調しておきたい。
そしてもう一つ基調としてあるのは、梨花に対する懲らしめ(?)のようなものだ。例えば非常にわかりやすい話、梨花は賽編の世界で虐められている。この世界において女王感染者でない彼女は、皆からチヤホヤされるよう特に演じていたようだ(ワープしてくる前の賽編の梨花は、魅音たちからその実態を聞かされるだけなので詳しくわからない)。しかしチヤホヤしてくれた子達がダム工事のため転校していき、取り残された梨花の周りにいるのは、梨花に反感を持ち、かつ来年にも雛身沢が沈むと言うことで多少ナーバスになっている子供たちである。そして梨花は孤立し、虐められる(この内容が、社会問題としての「いじめ」を意識しているのは間違いないだろう)。さらにもう一つあって、それは梨花の両親に対する冷淡さだ。先のリンクを貼った記事のコメント欄で指摘されているのだが、梨花の両親の死に対する諦めというか冷淡さはかなり特徴的であり、それは死んだ両親に対して「あの人たちとはもともとそりが合わなかった」の一言で済ませられるほどである。しかし賽編で、梨花は両親、特に反発しあっていた母親の温かさに触れる(※2)。そしてその一方で、母親を殺さなければ元の世界に戻れないことを知って梨花は葛藤する(最初とは梨花の態度が変わっていること、親殺しが羽入と類似していることも注目に値する)。結局梨花は元の(つまり祭編後の)世界を選んだ形になるのだが、この話を通して彼女はループ可能という異常な世界を抜け、ようやく普通の世界で「魔女」ではなく(経験豊かではあるが)普通の人として生き、普通の人として死ぬ準備が整ったのだと思われる(※3)。
ただ、そういう構造的な問題とともに、人を超越してしまった梨花への懲らしめ・戒めという(道徳的・感情的な)性格が賽編には強く感じられる(いじめはその最たるものだ)。もちろん、それでこそ梨花は心を入れ替えるわけで、ゆえに懲らしめ・戒めの強い性格の話になる必然性はわかるが、おそらくここには梨花に対する(一部?)読者の反発も反映されているのではないか、というのが私の考えだ(ついでに言えば、作者は梨花を理想的人物と認識していないことを示す機会でもある)。例えば梨花を、「他人を駒として利用し、自分の幸せを追求する女だ」と評するのも(かなり辛らつだが)可能である。というのも、そこまで考えた人がいるのかはわからないが、梨花の幸せの追求が雛身沢を救うことになったのは偶然でしかないのであり、もし誰かの死によって梨花の幸せが成立するとしたら、梨花は魔女としてそうなるように行動したと推測されるからだ(賽編に来た当初、梨花が「元の世界に戻るためには殺人もありだ」と[積極的にではないが]考えていたことを想起されたい)。結果として梨花の幸福の追求は「虐殺の防止」というこの上ない正当性を得たのだけれど、あくまでやっていることに注目すればそういう見方もできるのである(まあそこまで言ったら、誰しも大同小異だと私は思うのだけど)。これを梨花の両親に対する冷淡さなどとプラスすると、場合によっては彼女への強い反発も生まれるだろう。この賽編は、そういった反発も背負った梨花がハッピーエンドを迎えたことで生まれる大なり小なりの違和感・苛立ちに対し、梨花を懲らしめ・戒めるを与えることでそれらを解消しようとしたのではないか、というのが私の推測だ。
最後に。罪や悲劇のない世界にもかかわらず、プレイしていてどこか色あせてつまらないと感じられるのも重要な気がする(梨花のバイアスがかかっていることを承知の上で、だ。こういう感覚を持った人は結構いるはず)。あれだけ多くの悲劇を見てきたのに、罪も悲劇もないはずの世界にどこか苛立ちを感じる、そういった違和感・苛立ちの正体を探ることもまた、この賽編の醍醐味ではないだろうか。
※
ひぐらし関連で書こうとしたメモの中に「あちらを立てればこちらが立たず、無かったことになんてできない」というものがあるが、今となってはそれがどんな内容か自分でも思い出せなくなってしまった。
※2
かつて、梨花が母親と反発し合うのは女王感染者と元女王感染者の因縁でもあるのかと疑ったことがある。まあそれは推測に過ぎないとしても、周りの人たちがみんなチヤホヤしてくれる梨花にとって、両親という存在が他の人よりも相対的に重要でなかったのは確かだろう。(周りがチヤホヤしてくれない)賽編の世界での親子の絆を見て、その思いがさらに強まった。
※3
「賽の目」という上に立ったものの見方の否定、それがすなわち「賽殺し」。それは同時に「魔女」というあり方の終焉でもある。なお、「魔女」とか言う割に結構頭が悪いことについては過去ログ「ひぐらし:羽入の特性は物語と推理の根源的な破綻」を参照。
賽編の世界は祭囃し編(以下「祭編」)が終わった直後の世界が舞台だが、まず最初に指摘しておきたいのは、この賽編はひぐらし本編をプレイしている中で色々な問題意識を持ってなければおそらくつまらないということだ。例えば、「過去の事実は付いて回るのであり、なかったことにはできない」という私の考え(※)。これは沙都子の「罪」の問題や祭編の大団円に対して抱いたものだが、それあればこそ「昔の罪を乗り越えたからこそ今がある」という最後の方の圭一たちのセリフが生きてくる(問題意識なしだと単なる奇麗事で終わりだろうが)。これはまた、ひぐらし製作側の「罪」に対する明確な立場表明とも言えるだろう(なお、乗り越えてない沙都子は普通にムカつくガキだw)。また「罪」に関しては、例えば祭編で沙都子が両親を殺したのに生き続けていること(それについてはこの記事のコメント欄を参照)、鷹野が死なないこと、また厳しい見方をすれば悟史が死んでいないことも、「罰、報い」という点で疑問を持ったプレイヤーがいたのではないかと思う。そしてそれに対する答えも、「生き続ることが戦い」、あるいは「背負い続けることで償え」という(穢れを背負って死んだ)羽入と梨花の会話からわかる。これに対してどのような反応をするのかはもちろんプレイヤーの自由だが、ひとまずひぐらしの態度表明がそういう内容であったことは強調しておきたい。
そしてもう一つ基調としてあるのは、梨花に対する懲らしめ(?)のようなものだ。例えば非常にわかりやすい話、梨花は賽編の世界で虐められている。この世界において女王感染者でない彼女は、皆からチヤホヤされるよう特に演じていたようだ(ワープしてくる前の賽編の梨花は、魅音たちからその実態を聞かされるだけなので詳しくわからない)。しかしチヤホヤしてくれた子達がダム工事のため転校していき、取り残された梨花の周りにいるのは、梨花に反感を持ち、かつ来年にも雛身沢が沈むと言うことで多少ナーバスになっている子供たちである。そして梨花は孤立し、虐められる(この内容が、社会問題としての「いじめ」を意識しているのは間違いないだろう)。さらにもう一つあって、それは梨花の両親に対する冷淡さだ。先のリンクを貼った記事のコメント欄で指摘されているのだが、梨花の両親の死に対する諦めというか冷淡さはかなり特徴的であり、それは死んだ両親に対して「あの人たちとはもともとそりが合わなかった」の一言で済ませられるほどである。しかし賽編で、梨花は両親、特に反発しあっていた母親の温かさに触れる(※2)。そしてその一方で、母親を殺さなければ元の世界に戻れないことを知って梨花は葛藤する(最初とは梨花の態度が変わっていること、親殺しが羽入と類似していることも注目に値する)。結局梨花は元の(つまり祭編後の)世界を選んだ形になるのだが、この話を通して彼女はループ可能という異常な世界を抜け、ようやく普通の世界で「魔女」ではなく(経験豊かではあるが)普通の人として生き、普通の人として死ぬ準備が整ったのだと思われる(※3)。
ただ、そういう構造的な問題とともに、人を超越してしまった梨花への懲らしめ・戒めという(道徳的・感情的な)性格が賽編には強く感じられる(いじめはその最たるものだ)。もちろん、それでこそ梨花は心を入れ替えるわけで、ゆえに懲らしめ・戒めの強い性格の話になる必然性はわかるが、おそらくここには梨花に対する(一部?)読者の反発も反映されているのではないか、というのが私の考えだ(ついでに言えば、作者は梨花を理想的人物と認識していないことを示す機会でもある)。例えば梨花を、「他人を駒として利用し、自分の幸せを追求する女だ」と評するのも(かなり辛らつだが)可能である。というのも、そこまで考えた人がいるのかはわからないが、梨花の幸せの追求が雛身沢を救うことになったのは偶然でしかないのであり、もし誰かの死によって梨花の幸せが成立するとしたら、梨花は魔女としてそうなるように行動したと推測されるからだ(賽編に来た当初、梨花が「元の世界に戻るためには殺人もありだ」と[積極的にではないが]考えていたことを想起されたい)。結果として梨花の幸福の追求は「虐殺の防止」というこの上ない正当性を得たのだけれど、あくまでやっていることに注目すればそういう見方もできるのである(まあそこまで言ったら、誰しも大同小異だと私は思うのだけど)。これを梨花の両親に対する冷淡さなどとプラスすると、場合によっては彼女への強い反発も生まれるだろう。この賽編は、そういった反発も背負った梨花がハッピーエンドを迎えたことで生まれる大なり小なりの違和感・苛立ちに対し、梨花を懲らしめ・戒めるを与えることでそれらを解消しようとしたのではないか、というのが私の推測だ。
最後に。罪や悲劇のない世界にもかかわらず、プレイしていてどこか色あせてつまらないと感じられるのも重要な気がする(梨花のバイアスがかかっていることを承知の上で、だ。こういう感覚を持った人は結構いるはず)。あれだけ多くの悲劇を見てきたのに、罪も悲劇もないはずの世界にどこか苛立ちを感じる、そういった違和感・苛立ちの正体を探ることもまた、この賽編の醍醐味ではないだろうか。
※
ひぐらし関連で書こうとしたメモの中に「あちらを立てればこちらが立たず、無かったことになんてできない」というものがあるが、今となってはそれがどんな内容か自分でも思い出せなくなってしまった。
※2
かつて、梨花が母親と反発し合うのは女王感染者と元女王感染者の因縁でもあるのかと疑ったことがある。まあそれは推測に過ぎないとしても、周りの人たちがみんなチヤホヤしてくれる梨花にとって、両親という存在が他の人よりも相対的に重要でなかったのは確かだろう。(周りがチヤホヤしてくれない)賽編の世界での親子の絆を見て、その思いがさらに強まった。
※3
「賽の目」という上に立ったものの見方の否定、それがすなわち「賽殺し」。それは同時に「魔女」というあり方の終焉でもある。なお、「魔女」とか言う割に結構頭が悪いことについては過去ログ「ひぐらし:羽入の特性は物語と推理の根源的な破綻」を参照。
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