ぶっこんじゃうぞウォッカを無理やり飲ませ、肝硬変のせいじゃないこんなひどい頭痛♪(Liar!Liar!より)
はいどうもー、N作です。 先日映画「凶悪」のレビュー的なものを書いたので、元々投稿予定だった記事をアップしておきたいと思います。まあ話を広げすぎてまとまりがつかなくなった草稿でしかありませんがwちなみに監督のインタビューで作品のテーマ・方向性が言及されているので、そちらも参照されたし。最初の部分は記事の名前が出ていませんが、要するにこれも「好きだから肯定・賞賛する」「嫌いだから否定・批判する」という単純な二項対立で認識される(自分と反対側の見解に耳を塞ぐ)危険性について述べ、そこから「身内ーそれ以外」という境界線の問題が鋭く出てくる「凶悪」の話につなぐ、という展開です。まあお暇な方はどういう記事が境界線の問題にかかわるのか検索とかしてみてくださいなモンド・セレクション。
[原文]
「」などを書いてきた。これはもちろん、記事自体がたとえば を好きな人に対してのフックの機能を果たすのは言うまでもないが、それと同時にノイズ排除や を批判してもいる。「嫌いだから言っているだけではないのか」と無害化されぬよう。という目的がある。
ただ、前の「」でも言及したように、たとえばここから筆者が ではないと考えるのはあまりにも短絡的。最近の「凶悪」。ちなみに私は先に原作を読んでいるので、映画化にあたってどのような要素が付け加えられたのかを強く意識しながら見ていた。
犯人側。
死刑囚須藤。「裏切りが一番許せない」とはっきり言っている。あいつ=身内には迷惑かけられない逆に言えば「身内」じゃなけりゃあどうでもいい。それを最も端的かつ露悪的に表現しているのが、焼却炉からのローストチキンシーン。
境界線の問題。非嫡出子の権利、「夜と霧」、「ヒトラー最期の12日間」。日本の「チョン」「鬼畜米英」、アメリカのイエロージャップ、黒人差別、南アフリカのアパルトヘイト、先進国の外国人労働者排斥・・・普遍的な問題。境界線への無頓着さは時に鷹揚さとなり、時に無神経・無責任さとなる。たとえば我が国は差別的政策のために世界から経済制裁を受けていた昔の南アフリカと貿易し、かの国から「名誉白人」なる極めて不名誉な称号をいただいた実績がある。そしてマンデラの死去の際には自らの所業には触れることなく、彼を称揚してはばからないのである。これを恥知らずと言わないのなら、この世界から恥知らずという言葉は必要なくなるだろう)。今までもブログの中でしばしば取り上げてきた。
さらに抽象化。「ぼくらの」。自分たちの世界を守るために別世界の人間を殺すのは許されるのか(正当化されうるのか)という問題。とはいえそれくらいなら自分が死んだ方が・・・と言う人もいるだろうが、敗北が自分以外の全人類の死を意味するならどうか(全人類が人質、と言ってもいい)。さらに、そのような苦渋の選択を迫られるのが自分でなくてもよい(=交換可能)であり、陶酔することすら許されない。極めつけは、勝利の後で自分は死ぬという事実。
これは「自分のことが理解してもらないのが苦しい」といったテメーのさじ加減だろうがと失笑したくなる自慰織の問題ではない。
主人公。
社会正義・義憤で動く、と聞くと自分に直接関係ない人間についても動く勧善懲悪の話かと思われるだろう。しかしここで重要なのは、身内を犠牲にして、という点。母の介護の問題、妻の介護疲れと虐待の問題。それが典型的に出るのが「先生」の自宅訪問シーン。ここでの主人公の行動自体ははっきり言ってアホなので冷める。主人公が暴走し始めてることを示すのはわかるにしても。とはいえ、そこで「父を守ろうとする娘」と「妻を顧みない夫」というコントラストが描かれる。つまり、繰り返しになるが、ジャーナリストたる主人公の側が単純な正義という描き方をしていない。たとえば、「ヘルパーを告発しようとする行為が間接的に人を殺している」というのもそう。ラストの先生の言葉とも重なる。
原作を読んだ時に感じたこと。「無関心」によって犯罪が成立する。独居老人など。
ともすれば、単に覗き趣味、とまでは言わずとも告発する側になって終わり。それを、主人公の側に介護や「身内」との向き合い方という問題を背負わせることによって、「我々もまたそうなりうる」=交換可能性を突きつけている。須藤の「人間的」な側面が原作でも描かれているとはいえ、これをもって我々もそうなりうると納得させるのは困難だろう。たとえアーレントの「エルサレムのアイヒマン」などを知っていたとしても、だ。
義母に手を上げたという妻は次のように言う。「まさか自分がそんなことをするなんて」と。これはまさに。そしてこれがもう少し深刻な事態になると、家族の保険金目当ての・・・。
この作品がすばらしいのは、身内にはやさしい人間、そして自分の卑近な欲望にしか興味がない「凡庸なる悪」を描くだけでなく、それに対置できる に基づいて行動する人間に対し、身内の問題を突きつけている点だ。そう言えば海外でボランティア活動をする人間に対して、日本の例を出してきて「海外のことやってるより日本の中の を助ける方が先じゃないのか?」と言われたという話を聞いたことある。大きなことを論じるのは大事だが、それが単に陶酔になっていることはないか?
これを だと言って非難する前に、まず自分の身の回りに目を向けてみろよ。最近しばしば取り上げられる、地方議会の腐敗。国会云々も結構だが、そもそも足元はどうなってるの?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます