銀河英雄伝説:ブルース・アッシュビーの活躍と後世への影響

2024-09-23 11:52:46 | 感想など

 

 

銀河英雄伝説を知っている人にとっても、「ブルース・アッシュビー」と聞くと名前は耳にしたことがあるがどこで出てきた人物だったかと思われるかもしれない。というのも、彼とその周辺(730年マフィア)について真正面から描かれるのは外伝であり、その活躍期は本編のおおよそ50年前のことであるからだ。

 

その活躍の様子は動画の概要で思い出していただくとして、私が今回の解説で興味深いと思ったのは、「第2次ティアマト海戦における同盟側の大勝=帝国側の大敗とその歴史的影響」に関する考察だ。

 

というのも、この大勝は結果的に同盟が730年マフィアたちに軍事を任せてそのシステム的改革を怠り(安寧を貪ることへと繋がり)、それが本編開始時の同盟側の衆愚政治的状況の一因となった。またここでの大敗が、帝国側に軍事面での早急な改革の必要を痛感せしめ、そこでは身分にとらわれない(正確には比較的影響の薄い)人事が行われた結果、ラインハルトや双璧たちが実力を発揮しやすい環境が整ったわけだが、それは結果としてゴールデンバウム朝の滅亡へと繋がった。

 

まさに「禍福は糾える縄の如し」の言葉を思い出すところだが、現実の歴史に対する評価というものも、つい物事が表面化した時だけの状況で判断しがちであることを踏まえると、一つの戒めとして参考になる考察だったと言える。

 

例えば室町幕府のターニングポイントを考える時に、応仁の乱と明応の政変を上げる人は多いと思われるが、前者について、どうしても当時の将軍であった足利義政に批判的な目が向けられがちである。もちろん彼を無謬などという気は毛頭ないのだが(少なくとも将軍としての引き際のミスは完全に彼個人が原因だろう)、しかし応仁の乱を構成した対立構造というものは、父であり「万人恐怖」と呼ばれた足利義教の強権政治が蒔いた種が大きく影響しているのであり(各地の後継者争いに将軍が首を突っ込んで引っ掻き回すことで色々な場所・家に対立が生まれた)、しかもその中で「肝心の独裁将軍が嘉吉の変で横死→幼君が継承&すぐに死亡→自身が幼君として即位」というベリーハードモードで状態がスタートしているので、むしろこれを上手くコントロールできたのだとしたら、それはよほどの名君だったと評価すべきだろう(ちなみに彼は政所執事の伊勢貞親を重用しつつ将軍権力を再強化する動きもとっているのだが、有力守護たちの反発によりあえなく頓挫している)。

 

 

 

 

ちなみに応仁の乱を例に挙げたが、関東で同時期に享徳の乱が起こって一足先に戦国時代に突入したのも、義教時代の足利持氏誅殺にまつわる将軍家と鎌倉公方の不和という背景から生じている。ここからもわかるように、繰り返すがこの問題構造はひとり畿内周辺の話ではなく、日本の各地でヘイトと対立が高まっていた点に注意を喚起したい(そう考えると、応仁の乱の端緒が畠山家の相続問題と、そこへの介入によりゴタゴタが拡大したことは、言ってみれば数多ある火薬の一つが破裂しただけであり、そこが不発弾となっても、他の火薬が破裂する可能性は極めて高く、そうなったら一度収まった畠山家の騒動も連鎖反応的に再燃していたかもしれない)。

 

このように考えてみると、足利義政ひとりにその責を押し付けるのは(そもそも室町幕府の連合体的性質を含め)かなり無茶な話なのだが、どうしても歴史的事象については背景を遡行して構造を紐解くよりも、表面化した段階での行動やそれをした人物にのみ焦点化しがちなので、義政が必要以上に暗君に見える、という点に注意する必要があるだろう(ちなみにこうやって物事を「わかりやすく理解したい」という欲望は「日野富子悪女説」などもその典型だが、ここではテーマがブレるので詳述しない)。

 

これと同じことが、戦国時代の(甲斐)武田氏滅亡についても言える。この件に関しては、鉄砲をふんだんに用いた織田軍と、騎馬隊に固執した武田軍というわかりやすい対立図式が長篠で激突して後者が敗れ、父晴信(信玄)の跡をついだ勝頼は一代で武田を滅亡させてしまった、として批判の対象とされることが多い(ついでに言えば、時代小説では先に述べた部隊編成の違いをもって、そこに「時代の変化」という必然性を持たせたがるのだが→『長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像』)。

 

しかし実態はどうであったか?実は勝頼が大いに苦労していたのは、晴信が蒔いた種であった。というのも、晴信の死が織田信長包囲網の崩壊へと繋がり、それが信長が生きながらえる大きな要因となったのだが、晴信は包囲網に加わるまでは、織田とは同盟を結んだ間柄だった。しかし、その織田と結んでいる徳川との領地争いで、両属体制にある地を徳川が取り、さらにそれを織田が黙認・追認するかのような態度を示したことで、武田は織田に見切りをつけた、という次第である(ここに到って足利義昭が武田側に付いたことにより、信長は窮地に立たされることになった。ちなみに武田晴信をして織田との手切れを決心させたこの八方美人的政策が、どこまで意識的に織田が採った対応だったのかは今一つ判然としない。ただおそらくは、金子拓なども指摘するように、織田勢力が急拡大する中で、信長とその周辺が一種のキャパオーバーに陥っていたことはほぼ確実ではないだろうか)。

 

ここでもし晴信があと5年でも生き続けていれば、三方ヶ原のこともあるし、戦国史は大きく塗り替わっていた可能性はかなり高い。しかしながら、結局晴信は死んで信長・家康は九死に一生を得て、他方武田の後継者である勝頼は大きく方針転換された外交政策のツケを払わなければならなかったのである。

 

とするなら、先の義政と似て勝頼は(ベリーとまでは言わなくとも)ハードモードからのスタートであり、その失策を一人彼とその周辺のせいにするのは酷という話にもなる訳だが、さらに言えばむしろ彼の時代に武田が最大版図を築いていることにも注意を喚起しておきたい。こういった背景を斟酌すると、「武田晴信は稀代の戦国大名で、息子勝頼はその治績を台無しにした暗君」などという単純な見方は到底できないことになる、というわけだ。

 

もちろん、このことは晴信=暗君で、勝頼=名君であることも意味しない。というより銀河英雄伝説で描かれる諸々の人物と同じで、そもそも人を端から0ー100で評価しようとすること自体が乱暴なのである(言い換えれば、穏健な懐疑主義に基づく、是々非々の視点で評価する必要がある)。

 

これについて最後にもう少し別の視点での話をしておくなら、「最大版図」というものへの評価もそうだろう。先の勝頼に関して言えば、その領域はある勢力を見捨てたことにより、一挙に領内から離反が相次いで瓦解していくことになるのだが、それはつまり支配が脆弱であったことを意味する(まあこの辺は太平洋戦争とガダルカナル攻防戦とかを例に出した方がよりわかりやすいかもしれないが)。

 

 

 

 

あるいは日本以外に目を向けるなら、例えばムガル帝国や清朝についても同じことが言えるだろう。清朝の最大版図は乾隆帝の時代で、現在の新疆にいたジュンガル勢力を滅ぼすなど「十全武功」を謳ったが、実際には負けた戦いもあるし、また内乱の鎮圧にも大きな労力を割かれるなどした結果、むしろ国力は大いに疲弊し、さらにその鎖国的政策もあって、19世紀に列強の進出を許す素地を作ってしまった(ちなみにウォーラーステインはその世界システム論はブローデルの地中海世界という視点を受け継いだこともあってヨーロッパ(特に西欧)に偏る傾向があるが、フランクなどが批判するように、18世紀まではまだアジアの強勢が続いている時代で、実際18世紀当時の清朝のGDPは世界の3割にまで及んだ、とする見解もある)。

 

ことほどさように、最大版図の現出が、むしろ国力の疲弊と現状への満足を引き起こし、それが将来的な衰亡へ繫がるという様々な歴史的事例を踏まえると、冒頭にも述べたブルース・アッシュビー一党とその活躍の結果がかえって同盟の衰退と帝国の再建を惹起したという展開は、改めて歴史というものを考える上で一つの重要なパースペクティブを涵養する好材料となるのではないか、と述べつつこの稿を終えたい。


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