さまぁ~ずの「エロ意識過剰」を見つつ…
さて、「解釈の多様性~続「この道、わが旅」~」において、「汝自身を狂人と思え」を根拠としてそれを狂人日記と解釈することができると書いた。しかし後者の記事そのものも、狂人であることの表明の方が印象に残る人もいるだろうし、狂人という自己認識が戦略的にどのような意味があるのかという話の方が印象に残る人もいるだろう(「悪いのは常に他の誰か」の続きでもあるし)。
このように、abcの根拠として挙げた記事でさえそれぞれに多様な解釈が可能なわけだが、中華料理屋の話などはむしろそれを喚起するために用意された記事となっている。これは単なる日常の報告ともイカれたクレームの具体例ともとれるし、「反体制という呪縛」という三年以上前の記事とも繋げることはできる。あるいはもしかすると、「説明不足」に関する話を思い出すことも可能であるかもしれない…という具合である。短文の記事は、「ひぐらし崇殺し編再考」といった長文の記事とコントラストをなすだけでなく、解釈の多様性を喚起することを目的としているのである。
aまた尻切れトンボ?
bそんなに揺れ動いてほしいの?
c戦略を話せてご満悦ですか?
d狂人にロジックは通用しない
なんて二番煎じはつまらんので、少し先に話を進めよう。
こういった解釈の多様性が1700件以上にわたるわけだが、色々書き出せばこの数は現時点でも二倍近くになるかもしれない。そしてまた、それほどの分量の話を会話を通じて人に伝えるのは不可能であることも容易に理解できるだろう(そもそも、言葉にした時点で曲解されることもしばしばだ)。
このような状況を思うとき、人が人を理解できなくても何ら不思議ではないことに気付く(まして「共感」などなおさらだ→「『共感』なる言葉の生み出す病理」)。そういった見地に立てば、「他人は必ず理解できるのか:願望の相対化」で書いた内容や、このブログで長文が多くなる理由もよりよく理解されるように思う(人によっては、そういった長文を、パラノイア性=狂気の発露であると見なすだろう…)。
(追記)
このような解釈の多様性を認識して自己の解釈を相対化することは、それが自己を映す鏡であるという気付きへと繋がる(「作品に対する反感は自己を知る絶好の機会である」など)。また、人の理解に関する部分を諦めの提唱としか読めない人もいたりするが、それに対してはいかに理想なるものが、あるいはそれに埋没することが有害かの一例である「子供は天使じゃない」が答えになるかもしれない(「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉もある)。なお、この記事に「萌え」への批判を見出すことも可能である(「妄想代理人」なども関連)。
このような問題意識をより一般化すれば、理想(像)の客体化・分析という話になるが、今はただ、関連する話題として「大団円症候群」なる記事を書くかもしれないことだけ伝えておく(idol,ideal,ideology)。
さて、「解釈の多様性~続「この道、わが旅」~」において、「汝自身を狂人と思え」を根拠としてそれを狂人日記と解釈することができると書いた。しかし後者の記事そのものも、狂人であることの表明の方が印象に残る人もいるだろうし、狂人という自己認識が戦略的にどのような意味があるのかという話の方が印象に残る人もいるだろう(「悪いのは常に他の誰か」の続きでもあるし)。
このように、abcの根拠として挙げた記事でさえそれぞれに多様な解釈が可能なわけだが、中華料理屋の話などはむしろそれを喚起するために用意された記事となっている。これは単なる日常の報告ともイカれたクレームの具体例ともとれるし、「反体制という呪縛」という三年以上前の記事とも繋げることはできる。あるいはもしかすると、「説明不足」に関する話を思い出すことも可能であるかもしれない…という具合である。短文の記事は、「ひぐらし崇殺し編再考」といった長文の記事とコントラストをなすだけでなく、解釈の多様性を喚起することを目的としているのである。
aまた尻切れトンボ?
bそんなに揺れ動いてほしいの?
c戦略を話せてご満悦ですか?
d狂人にロジックは通用しない
なんて二番煎じはつまらんので、少し先に話を進めよう。
こういった解釈の多様性が1700件以上にわたるわけだが、色々書き出せばこの数は現時点でも二倍近くになるかもしれない。そしてまた、それほどの分量の話を会話を通じて人に伝えるのは不可能であることも容易に理解できるだろう(そもそも、言葉にした時点で曲解されることもしばしばだ)。
このような状況を思うとき、人が人を理解できなくても何ら不思議ではないことに気付く(まして「共感」などなおさらだ→「『共感』なる言葉の生み出す病理」)。そういった見地に立てば、「他人は必ず理解できるのか:願望の相対化」で書いた内容や、このブログで長文が多くなる理由もよりよく理解されるように思う(人によっては、そういった長文を、パラノイア性=狂気の発露であると見なすだろう…)。
(追記)
このような解釈の多様性を認識して自己の解釈を相対化することは、それが自己を映す鏡であるという気付きへと繋がる(「作品に対する反感は自己を知る絶好の機会である」など)。また、人の理解に関する部分を諦めの提唱としか読めない人もいたりするが、それに対してはいかに理想なるものが、あるいはそれに埋没することが有害かの一例である「子供は天使じゃない」が答えになるかもしれない(「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉もある)。なお、この記事に「萌え」への批判を見出すことも可能である(「妄想代理人」なども関連)。
このような問題意識をより一般化すれば、理想(像)の客体化・分析という話になるが、今はただ、関連する話題として「大団円症候群」なる記事を書くかもしれないことだけ伝えておく(idol,ideal,ideology)。
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