なぜマスメディアは「マスゴミ」と評されがちなのか:その危険性と必然性

2024-04-22 12:20:05 | 感想など

 

 

 

 

まあたマスメディアがやらかしとるわ。てか毎日毎日飽きもせず、ようここまで不祥事かますよね。そりゃマスゴミって言われるのも当然だし、他に選択肢もあるんだから捨てられていくのは残念でもないし当然だわ・・・

 

あ、どうもゴルゴンです。まあこうして話題にされること自体、「まだニュースになる価値がある」とみなさていることの証左でもありますが、広告収入の減少によるスポンサーの影響力の増大、それに加えて製作費の減少がもたらす質の低い番組の垂れ流しetc...といったことが続けば、それもいつまでの話やら、て感じですわな。

 

なお、「ドラマやバラエティがダメでも報道の方は価値がある!」とか言ってみても、2023年にジャニーズ問題を始めとして業界の構造的腐敗がこれでもかと散々「国内メディアの外側から」明らかにされたので、そっちもいい感じに終わってる状況ですよと。

 

前にも書いたが、これが「イエロージャーナリズム」などと揶揄されていたはずの週刊誌が、告発の最前線として注目されてしまうという転倒した状況が生まれた理由と考えられる。またそうである以上、ただ週刊誌報道を批判しても、これまで主に大手マスメディアが占めていた空白を、次は何が埋めるのか?という話になるだけなので、大して意味はないとも言えるのである。

 

では、マスメディアへの批判というのは的を射ているのか?あるいはオールドメディアはむしろ消滅した方がよいという主張が妥当かと言えば、それは余りにも単純過ぎる見解だ・・・そういった点で稲増一憲『マスメディアとは何か 「影響力」の正体』は参照すべき著作だろう。

 

ここでは、巷で言われるメディアによる世論操作やポピュリズムなどについて、まずはナチスのプロパガンダや『宇宙戦争』事件を取り上げつつ、その影響がどのようなものであったかを具体的に検証している(例えば、どのような層に対して訴求力が高かったのかなどを数値化している)。

 

そのようにして、著名な現象についての一般的な思い込みを批判的に是正しながら、主に政治にまつわる世論形成という視点でクラッパーやラザーズフェルトの分析などを紹介し、またその上で、テレビや新聞といったオールドメディアに対するオルタナティブとしてしばしば挙げられるインターネットの「選好に基づく強化」という性質とその危険性を指摘している(これも以前ジョナサン・ハイトの著作などを取り上げたことがあるが、「エコーチェンバー」や「サイバーカスケード」、つまり「見たいものしか見ない」傾向を強化し、それが分断を促進するという現象だ)。

 

ここで述べられている『宇宙戦争』事件に関連して、その内容をリテラルに受け取ってパニックになった人々は、批判的思考能力を「持たな」かったのではなく、「働かな」かったのだという説明は興味深かった。その具体例として、人から「ヤバいことが起こっているからラジオをつけて!」と言われてそれを聞いたという状況が挙げられているが、つまりはニュースの受け取り方は、それを受容した状況に大きく左右されることを示している。

 

何を当たり前のことを言っているのかと思われるかもしれないが、ここからフロムが、『自由からの逃走』において、ナチスを支持したグループとして没落中間層の存在を指摘したことが思い出される。つまり、「背後の一突き」論や戦後の賠償、世界恐慌などにより、「俺たちは本当はこんな目に遭うはずじゃなかった」というルサンチマンや被害者意識が湧き上がり、それが民族社会主義の極端な主張への同調を促した、ということである(これについては、「『陰謀論』の歴史と背景」であったり、「『全体主義の起源』読書会に向けた覚書」などでも触れた。ちなみに言っておけば、丸山真男も日本において軍部の台頭を支持したのは主に没落中間層だったと述べている)。

 

この知見は、情報の受容において、情報そのものが真水のように入って来るわけではないため、「どのような状況で受け取るのか」が重要であるという研究とも一致する。すなわち子どもであれば、番組そのものの内容を真っ先に問題にしがちだが、実はそれを一人で見るのか、親などと見るのかで受け取り方が全く変わってくるとされている(いささか古い言い回しになるが、お茶の間で家族団らんの中見るのか、鍵っ子が一人で見るのかでは全く反応が異なってくるという話)。

 

こういった情報とその受容についての実証研究の成果を簡潔に見ていく上で、またあるいは一種の陰謀論的なマスメディア観を脱却する上で、有用な著書と言えるだろう。

 

しかし一方で、これを読んでも「現在のマスメディア批判の風潮」に掉さすことはできないだろうと私は思っている。なぜかと言えば、「反証」が余りに膨大にあるからだ。それが先にも述べた2023年に次々と出てきたジャニーズ宝塚などの不祥事であり、これらを聞いて今まで多くのマスメディアは雁首揃えて何をやっていたのか?という印象を持った方も少なくないだろう。

 

もちろん、2022年発刊のこの本に、2023年の諸々の不祥事と、マスメディアがそれと一種共犯関係になり構造的隠蔽を行ったことを盛り込むのはないものねだりというものだが、とはいえ2022年以前でもすでに存在していた構造的問題とマスイメージの必然性を考えることなしに実証研究をただ提示してみたとて、一般大衆のイメージを是正することは困難だと思われる。

 

つまりはこういうことだ。マスメディアは「第四の権力」とも言われるように、そもそも政府や政治家など権力の監視者を自認し、またそうアピールもしてきた。とするならば、政治的事件を報道をしても、そこまでイメージアップにつながることはない。なぜならそれは、「当たり前のことをやっている」だけと認識されるからだ(この後の話にも繋がるが、政権べったりの御用メディアが存在する時に、それへの批判的報道をしっかりやって初めて監視者として機能しているとみなされるのは、それほど不思議な話ではないだろう)。

 

試みに食品会社を想像してみるといい。そこでは量産体制を整えて日々製品が作られ続けるわけだが、それだけで称賛されるだろうか?そこに何らかの付加価値があって初めて、他と差別化されるのではないだろうか?そして一方で、不適切なものを流通させたとなれば、信頼が失墜するのは一瞬なのである。

 

今食品会社の喩えで説明したが、もし仮にその会社が、社会のご意見番か何かを気取ってその問題を批判するような言説をしばしば吹聴していたならばどうだろうか?自分が失敗を犯した時の見られ方は、黙々とモノづくりをしている企業よりも遥かに厳しいものになることは、容易に想像できるのではないだろうか。

 

こうしたマスイメージの形成とその必然性を考えれば、今のような「マスゴミ」論調が沸騰することは、問題ではある一方で、極めて自然な話であり、こうした状況に具体的な対策を打てないのであれば、マスメディアの役割云々とお題目を述べてみたとて、説得力は低いだろう(念のため言っておくと、確か2010年頃のものだと記憶しているが、日本においてはマスメディアに対する信頼が先進国の中では高めだというデータもあり、ある意味で「マスゴミ」論は期待の裏返しと見ることもできる。ちなみにこの背景の一つは、戦後間もない頃に学校教育で存在していた「言語」とその廃止が関わっているように思える。そこでは、ニュースキャスターが話している場面を見せた上で、「この人はどういう意図でこういう発言をしていると思いますか?」と生徒に問うような内容であったとされ、仮にそういう訓練を義務教育で受けていたならば、もう少し批判的な視座をもち、割り引いてマスメディアを評価する姿勢が自然と身についていたのではないか)。

 

さて、ここからさらに、インターネットやインターネットメディアにやたら期待がかけられてしまう構造的背景、またそもそも「大手マスメディア」と括られることの問題点とその必然性を書こうと思ったが、ここまででそれなりの分量になったため、次に機会としたい。


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