昨日はなぜマスメディアは「マスゴミ」と評されがちなのか?ということについて、稲増一憲『マスメディアとは何か』による批判的検証に触れつつも、そのマスイメージが形成される構造的必然がある以上、ただ実証的研究を提示しても恐らく焼け石に水であると述べた。
その構造的必然とは、マスメディアはそもそも自らを「第四の権力」などと自称し、権力の監視者たることを謳っているわけだが、そうである以上政治問題を報道するのは当たり前とみなされるのであり、逆に不祥事を起こしたり、ましてそれを隠蔽したりすれば、アピールしている自己像とのギャップから極めて大きなダメージになる、ということであった(言い換えると実はマスメディアへの信頼が根底にある、とみなすことができるのだが、これを政府の立場に立てば、「そもマスメディアというのはその程度の存在である」という免疫化を国民にしてこなかったツケ、とも表現できるだろう)。
ところで、こういったマスゴミ論に対し、マスメディアの果たす役割を強調することで、そこに歯止めをかけることができるだろうか?と問われれば、私は明確に否だと考える。
話をわかりやすくするために「大手メディア」という括りでその状況を見てみると、まずクロスオーナーシップ制度によって読売グループ(日テレと読売新聞)やフジサンケイグループ(フジテレビと産経新聞)といったものが構成され、さらに記者クラブ制度といった仕組みで運営が行われていることを想起したい。
例えば前者によってグループ同士の相互牽制が働きにくくばかりか、後者によって同業他社との横並び(「特落ち」といった表現はその典型)現象が起こる。まあ早い話が、業界内で自浄作用が働きにくくなっている訳で、さらにここにテレビなら電波利権、新聞なら再販制度といった保護機能が設定されていることで、言わば特権階級内でのもたれ合いが構造的必然として生まれてくると言える。
もちろん、よく知られているように、実際はどのグループも同じ特性を持っている訳ではなく、特に新聞だとこれが明白で、例えば「保守」「右派」的な言説を好む産経新聞・読売新聞、「左派」的な言説を好む朝日新聞・毎日新聞といったようにマッピングが比較的容易であった。
しかし新聞については、もはやその購読部数の大幅減少くらいしか全国的ニュースにはならなくなりつつあり、その影響力は急速に低下している。となると、「大手メディア」と言った場合に印象を作る柱となるのはテレビなわけだが、そこでは新聞ほど違いが明確でない上に、そもそもあるテレビ局がどのグループ系列なのか社会でどれだけ正確に認知され、かつまたそれぞれがどのような来歴・性質を持っているかを知っている割合は、研究者や業界人を除くとかなり少ないのではないだろうか。
このような見立てが正しいとすれば、こういう認知の構造が成立していると考えられる。すなわち、あるテレビ局が不祥事を起こしたとする。すると、具体的なテレビ局の印象が悪くなるよりも、テレビ(大手マスメディア)全体の印象が悪くなる、と。その証拠に、前回紹介した顔出しNGの動画に対するコメントはどうなっていたかと言えば、「テレビの顔出ししないなんて約束は信じない」・「テレビのインタビューは受けないに限る」といったものだった。念のため強調しておくと、モーニングショーはテレ朝系列の番組であり、テレビ全体を代表しているわけではない。しかし、批判・反発のコメントはなべて「テレビ」という主語なのである。
もちろんここには、動画主の長谷川良品がそもそもテレビの一般的な演出として、臨場感を出すために顔出しを渋る傾向が強くある、と指摘してことも関係している(念のため言っておくが、長谷川が一部の不祥事を業界全体の不祥事としてミスリーディングを行っているなどと言いたいのではない)。しかしテレビそしてそれをイメージの柱とする大手マスメディアの印象が日々悪化する構造とは、このようなものである。
すなわち、テレビだけに限っても、多くの番組が存在するわけだが、そのいずれかが不祥事を起こせば、業界全体のイメージダウンにつながる、という構造である。ではそれはやはり誤解とか偏向なのかと言えば、そうとも言い難い。その根拠を列挙してみると、以下のようになるだろう。
1:既述のように、そもそも業界が様々な制度や利権でグルーピングされてまとまっている
2:横並び傾向が強く、同じような手法を行っているケースもしばしば見られる
3:相互牽制作用が弱く、問題が起こってもスルーしがちである
4:結果として、そこへの批判はテレビ(や新聞)以外のメディアを通じてなされる
要するに、ジャニーズ問題などで顕著に見られたように、自グループはもちろん、業界単位で隠蔽し合っているし、少なくともかかる印象が出来上がってしまっているのだ(まあ自分で日々それを証明しているので世話はないって話だが)。そしてその結果、むしろSNSなどが告発のツールとして現実に機能してしまっているため、「テレビはクソ、他のメディアにとっとと乗り換えた方がよい」という印象を持たれる構造的必然が出来上がっているしまっていると言えるだろう。
なお、直感的な理解なので上の項目には入れていないが、個別で良い番組や良い人材がいることを否定するつもりはない。しかし、それによって生じたプラス評価は、テレビやマスメディア全体のものとしてではなく、個別具体的なものとして認知されていると思われる。だとすると、RPGで喩えるなら、仮に個別での回復魔法を散発的にかけたとしても、毎ターン強烈な全体攻撃が来る以上、どんどんHPが削られて行ってジリ貧になるような状況が今のテレビや大手マスメディアの置かれた環境と評せるのではないだろうか)
さて、この構造を変えない限り、いかなる「正論」を言おうとも、焼け石に水である。すなわち、大手メディアの資金力や取材力は非常に重要で、他のメディアでは難しい企画がなしえるというのは誠に正しいのだが、その組織がリソースを自己保身による忖度や偏向、隠蔽に注ぎ込むならば、そんな官僚化して硬直・腐敗した組織より、たとえ取材力はなくとも、誰はばかる必要のない小集団や個人の発信に期待を寄せるのはむしろ当然のことと言えよう(前掲の『マスメディアとは何か』で指摘されているように、ネットというものには極めて多くの問題が存在することはすでに数多くの実証的研究があるのだが、しかしそれにもかかわらず、そこに期待が向けられる必然性を理解した方がよい(これは週刊誌報道に期待がなされる構造と同じ)。
そして肥大化して官僚組織化した大手マスメディアに、そのような構造転換は不可能だろう。そもそも自らの不利を切るのは比較的容易だが、自らの利を手放すことは極めて難しいものだ。まして、既存の仕組みで現在の利益と権力を保持し、ゆえにその維持を自らのレゾンデートルとすらなす官僚組織には、その放擲を組織が是認するなど針の穴を通すような可能性である(このあたりは政治家と官僚の違いについて述べた、ウェーバーの『職業としての政治』を想起するのもよいだろう)。
別の言い方をすると、個人単位なら問題意識を持っていたり、変化に向けた行動をなそうとする人はいる(と思われる)。しかし、多くの人間の利害が絡む大組織では、それが潰されるか、もしくはそれを見越してとっとと組織の外に出る方が早かったりする。かくして腐敗した組織は無事温存される…というわけだ(これについては、「覚書:日本社会における共同幻想の構造的特徴」などで触れている)。
以上を踏まえると、現在のマスメディアを巡る認識や環境は、大手メディアが衰微して徹底的な解体的出直しをしない限り、ほとんど不可能事のように思える。とはいえ、それがすなわちメディアユートピア(?)の誕生になるかと言えば、全くそんな牧歌的なことはなさそうである。それは例えば、町山智浩が『引き裂かれるアメリカ』で触れているように、大手メディアへの信頼が大きく毀損した結果クソも味噌も一緒になって陰謀論が猖獗を極めるアメリカの現状からも予想できることである(革命思想と同じで、アンシャンレジームを倒せばユートピアが到来するというのは、実にありがちな妄想である)。
そこまで踏まえた上で、どのようなメディア環境を新たに構築していくかを考えるのが、今後の課題と言えるのではないだろうか。
以上。
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