かつては、情報が増えて得られる知識が増加するのは良いことだと思われてきた。しかし、decision fatigueという言葉もあるように、そもそも情報が多ければ人間はしばしば考えるのをやめ、目の前の情報や提案に唯々諾々と従う傾向があるともされている。
情報はただインプットするだけでなく、分析・整理・統合といった作業を頭の中で絶えず行うことを考えれば、それがキャパシティを超えた時どこぞのカーズ様のようになるのはさして驚くべきことではない、というわけだ。
チェリーピッキングやエコーチェンバーといった人間の認知バイアスに関する用語は多いが、そもそも前述のような人間の限界値とその偏り方が、陰謀論の流行などとも大きく関係してることは注意して然るべきだろう(まあ認知的不協和と抗いながら、相矛盾する情報を整理したり是々非々の評価を下すより、ノイズなき一本の線で物事を理解する方がどう考えてもラクだからね)。
さて、そんな理解の元で考えると、幸福度世界一とされてきたブータンが、日常生活にネットが入り込んだことで世界の情報を知り、それによる相対的剝奪感が幸福度の低下を招いた、というのは示唆的である。「自分と直接関わらない世界のことは気にしてもしょうがない。今の身の回りの生活や自分の趣味のことを考えよう」というのはいかにも「正論」であり全くその通りではあるのだが、ネットで溢れている妬み・嫉みの数々からすれば、人間が多くの場合そのような正しさに基づいて行動しているわけではないのは明白であり、むしろ理性に基づいて行動する人間像という近代の啓蒙思想的な理解の方が、幻想というか極めて偏った見方であったと評価するのが妥当だろう(これは啓蒙思想の盛んな時代の古典派経済学と、認知科学やゲーム理論などを踏まえた行動経済学との対比で捉えてもわかりやすい)。少なくとも今後の社会設計は、そのような偏りを強く意識した上で行われる必要がある・・・
と前置きが長くなったが、そんな話と関連するのが冒頭の「人間ランキング」である。色々思うところはあるが、教師と保護者がAI(ロボット)化している、というのはありえる未来像だろう(まあ保護者→AIのあたりはプラトンの「哲人国家」をAI版にしたらこうなる、という感じか)。また、情報が見えすぎることの不幸と、内発的動機づけを無視した競争を強いることがどんな結末を招くのか、という一つの思考実験として興味深いものである。
ただまあ個人的には、この状況になったら政府はもっと上手くやるだろうなと思うので、あまりリアリティは感じなかった。というのも、「天国に行けない」人間たちがルサンチマンを溜め込むと面倒なことになるので、おそらく皆が自由意思で勝手にやりたいことをやって、(この動画の設定に従えば)その中の極めて優秀な一部を上積みとして特別扱いしてリクルートなどするだろうなと思ったからだ。
この段階にきているのであれば、正直人口を多く保つメリットはない。人口の3割が減少となっているが、それが問題となるのは資本主義というチキンレースを続けざるをえず、生産者と消費者が大量に必要であり続ける(でないと拡大を続けることが無理だから)状況に限定されるのであって、生産の多く(人手)をAIで代替し、かつ資源の限界と再配分の難しさからむしろ人間が減ってもらう方にメリットがあるような状況なら、無理なくダウンサイジングしていくことの方が社会の維持にとっては合理的だからだ(まあ税収をどうするかって問題はあるし、この仕組みの変容は国民国家や民主主義についても大きな変化を求めるだろうから、そう単純にポスト資本主義社会が構想できる訳ではないが)。
つまり、数を担保することにプライオリティを置く必要がないのなら、煽ってゴリゴリに努力させねば才能が花開かない「養殖モノ」ではなく、そんなものはなくてもハイパフォーマンスを発揮できる「天然モノ」だけを大事にすればよい、ということになる。後はAIによってフィルタリングされた娯楽に耽溺してもらい、社会を破壊する方向にさえいかなければOK(まさに「パンとサーカス」システム)という感じではないかな。
という具合にディストピア風の未来像で反論をしてみたが、この動画でもう一つ大事なのは、結局アイデンティティや自己肯定感と言われるようなものを土台として持たずに自己の存立を他者に仮託すると、上手くいっている時は善意を他者に押し付け、上手くいかない時はあっという間に自己否定で立ち直れなくなるような人間になってしまうよ、という事だろうか。
「他者との共生の作法は極めて重要だが、一方で自己の存在理由は自らしかありえない(自分で作るしかない)」という状況が社会の多様化・複雑化の中でさらに加速していくだろうと述べつつ、この稿を終えたい。
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