うーん、どんどん人間いらんくなるなあ(・∀・):AI生成の隆盛から思うこと

2025-01-12 16:49:38 | AI

 

 

 

 

 

多くの場合において、人が求めているのは「~げなもの」でしかない。そもそも「現実」と言ったところで、提示されているそれらもフォトショップなどによってredactedな製品であり、仮にウェブを通さなくても、化粧動画などを見ればわかる通り、極めて精緻に加工された世界に我々は生きているのである(まあベンヤミンが『複製技術時代の芸術』を著したのが1936年と100年以上前、ボードリアールが『シミュラークルとシミュレーション』を著したのが1981年と40年以上前であり、それらで述べられていたことが誰に目にも明らかになったのが今日の状況だ、と表現するのが適当だろうが)。

 

・・・なーんて小難しいことを言わなくても、コンテンツが溢れかえっている昨今、結局エンドユーザーにとっては「自分にとってより楽しめるものはどれか」という問題でしかなく(そう言えば文化庁が「AI生成画像と二次創作は同じ扱いです」と発表したとか何とか)、そうなると量産されるAI生成物の中で人気があるものを人がどんどん消費していくようになれば、単に「生身の人間が演じているもの」と「AIが演じているもの」もフラットであり、おもしろければどっちでもいい、という風潮が強くなっていくのではないかな(前に紹介した故人の声を分析してCOVER曲を歌わせる動画などもその一例)。

 

もちろん嗜好は人それぞれなので、全員がそうなると言うつもりはない(グーグルマップが発達しても、あえて何も調べずに町歩きをしたがる人はいたり、amazonが発達しても古本屋巡りを続ける人もいるのと同じだ。これは「孤独のグルメ」がいまだに人気であり続ける理由の一つとも言えるだろう)。ただ、今でこそ「AI生成は芸術と呼べるのか」という大文字のCultureとの問題が取り沙汰されたりもしているが、それも個人の好き嫌い、すなわち「趣味嗜好の問題」として個人化されたものとなっていくだろう、という話である(あくまで「ゴッホ自らが描いたものしか認めん!」という人はそうすればいいし、別に「それ風」でいいんじゃね?という人はそれを消費したらよろしい、ということ)。

 

そしてこの動きは、(AI生成ではない)人力による創作物のハードルを、急速に引き上げていくことになるだろう。なぜなら、AI生成については量産が容易な上、技術革新が日進月歩であり、心血を注いで作品を作ったとしても、よほど隔絶した何かを持たない限り、一瞬でコンテンツの大海に沈んでいく状況が避けられないからだ(しかも生身の人間と異なり、スキャンダルとは無縁だ!)。

 

とはいえ、こういった状況について、クリエイターのモチベーションや生活の問題と繋げて、生成AIの広がりを懸念する向きも理解はできる。とはいえこういう状態で将来的に創作物と生活の幸福な両立があり得るとするなれば、「AIの「進化」によって仕事量が大幅に減り、もはや生活のために創作をする必要のない人間たちが趣味としてごく稀にそれが大ヒットすることがある」という古代ギリシア的状況の再来くらいではないか、と思う次第である(まあごく一部では、近世イタリアにおいてメディチ家やスフォルツァ家がボッティチェリやダ・ヴィンチなどを支援したがごとき状況も残ると思われるが)。

 

ちなみにこの記事は、元々オーストラリアにおけるとある現代詩の「捏造」に関する動画のレビューを書こうとしていた際副次的に作られたものだが、先にこちらが完成したので、先行して掲載しておきたい。

 

 


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