映画「ディアハンター」について

2006-12-22 03:00:06 | レビュー系
時計仕掛けのオレンジ」と一緒に借りた「ディア・ハンター」の感想を述べる(借りた理由はデニーロの演技を見るため)。この映画については避けて通れない大きな問題があるが、まずはそれ以外のところを簡単に述べておく。


この作品では、鹿狩りを趣味とする青年達がベトナム戦争で心に傷を負った様が描かれている。ところで、なんでハンターなのか?という点に疑問を抱きつつも、その理由はよくわからないまま終わった。ただ、それに付随する要素に注目すると、ハンティングのために訪れる山を「古き良きアメリカ」の象徴として描こうとしているのと関係があるのだろう(そういうセリフも出てくる)。また、この大自然はベトナムの戦場やサイゴンの街とのコントラストの役割も果たしている。あと、「苦しませないために一発で仕留めてやる」というデニーロのセリフが序盤で出てくるが、これは(ベトナム戦争の)傷を負ったまま生き続けることの苦痛を暗示していると推測される(また細かいが、頭を撃ったときの血の出方はあれでいいのだろうか?出口から噴き出すもんだと思ってたんだけど…)。また気になっていたデニーロの演技に関しては、ロシアン・ルーレットの鬼気迫った感じや帰ってきて平穏な住処や日常に馴染めない姿などを見事に演じていて、期待通りだった。


さてここから、本題に入ることにしよう。
この作品は、視点がアメリカ側に偏っているという批判があり、一方で戦争の悪そのものを描こうとしたのだという見解があるという。これに関して本編の描写に基づきながら私見を述べていくことにする。


まず言えるのは、たとえアメリカ側に偏っているとして、この「ディア・ハンター」の持つ主張や迫力を否定しきってしまうのは公平を欠いた評価だということだ。というのもこの作品の真価は、戦争を描くのではなく、戦場という空間の持つ過酷さ・残酷さを描いたところにあると思うからである。詳しく言うと、もし戦争を描きたければそこには政治的な背景や主張が入ってこざるをえないのだが、この作品ではそこが全くと言っていいほど捨象されている。これについては、デニーロたちがベトナムに行くことになってアメリカで騒いでいた後、突然何の説明もなく戦場のシーンに繋がっていることから明らかである。もちろんこれは突然の場面転換によって視聴者を引き付けるという演出的な意味もあるだろうが、戦場に到る過程や背景を重要視しないという製作者側の姿勢の表れでもあると思われる。そしてこういった演出により、突如異常な状況に放り込まれたという臨場感を視聴者に味あわせるという狙いもあるのだろう。


このように、ディア・ハンターは戦争の背景や政治的主張を従来の戦争映画のように描くことはないし、それが新しさであり真骨頂であったと言える。だとすれば、先ほどの偏っているという批判は不当なのだろうか?答えは否である。この作品は明らかに偏った描写が見て取れる。しかも前述のように背景や主張を「説明」しないからこそ、その偏りはよりナイーブで、無反省で、ことによっては嫌らしいものとして視聴者の目には映るだろうし、少なくとも私はそう分析した。


今私は「分析した」という言葉を使った。つまりこれには、感覚的なものではなくきちんとした根拠がある。無抵抗の農民を殺していくベトコンを、デニーロが怒りとともに殺すシーンがそれである。これは明らかに、デニーロに正義があるような描かれ方だ。一体どれほどの人が、無抵抗の農民を殺していく人間に反感を覚えないでいられようか?そしてこの描写から、視聴者はデニーロ、そしてその延長線上にあるアメリカの側に正義があるという主張を感じるだろう。ここである人は言うかもしれない。すなわち、「そういう『デニーロ=正義→アメリカ=正義』という図式で見ないようにするために、政治的主張を入れていないのだ」と。しかしそれを言うならむしろ逆で、距離感を持って見ることのできる政治的主張などではなく残虐さなどに対する純粋な怒りという形の描写によることで、むしろより直接的で強烈に「ベトコン側=残虐、アメリカ=正義」という図式が視聴者に植えつけられるのだ。なるほど確かに、例えばアメリカ軍が農民を虐殺していくという真逆のシーンを描いてデニーロたちが酷い目に遭ったとしても、視聴者は彼らにあまり同情しないだろうという演出上の制約はある。とはいえ、こういった部分の偏りが、捕虜になった環境やサイゴンの街を戦争(の異常な状況)そのものの象徴と捉えるか、あるいはベトナム人の描写なのだと捉えるかという部分や、最後に“Good Bless America”が歌われることをどう受け取けとるかといった点に対して大きな影を落としているのだと思う。つまり戦場でベトコンをデニーロが殺すシーンに見られる偏りを根拠に、戦争の象徴ではなくベトナム人の異常さを描写しているのだと解釈したり、また歌については無反省な愛国心の顕れだとして「友人が戦争によって死んだのにそれが一番描きたいことなのか?」あるいは「被害者面しやがって」という批判が生まれる要因になるのだと思う(政治的主張がないだけに、このような愛国心はより生々しく感情的なものとして映る)。


結論。もし製作者が偏りを出したくなかったのなら、あのベトコンを殺すシーンは全くの失敗だったと言える。あれを見て、この作品がアメリカ側に偏っていないと言うのは少々無理な解釈だからだ。しかもそういう偏りが描かれることによって、本来色々に解釈でき、また複雑な要素を持っていたはずのロシアン・ルーレットのシーンやラストの歌が、アメリカ側に偏った一方的で無反省な内容だと受け取られてしまう原因となってしまっているのである(なお、もしアメリカ側への偏りを製作者が無邪気に持っていたのであれば、私は失笑するだけのことだ)。まあ少々同情的な見方をすれば、1978年というベトナム戦争(1960~1975年)が終わってまだ三年という時期に、偏りの無い映画を作ることは不可能だったのかもしれない。昔見た1986年のプラトーンを思い出し、ふとそんな気になった(もっとも、あれが偏りのない内容だと断言するつもりもないけど)。


最後に。ニックを助けに行くところで有り金を全部つぎ込むのには正直げんなりした。それだけ友人を連れ戻したいという気持ちの強さを演出したいのはわかるが、突然のヒロイズムがそれまでの生々しい迫力にそぐわないため、違和感ばかりが残ったのだ(人によっては過剰で嫌らしいヒューマニズムとさえ感じるかもしれない)。ここでデニーロの友人を思う気持ちやヒューマニズムが強調されればされるほど、周りの金に執着する人々、すなわちベトナム人たちの汚さが浮き彫りされる。この表現も、先に述べたアメリカ贔屓と相まって、この作品の見解が偏ったものだという思いを視聴者に与えることだろうと思う。

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