なかなかPCが使える状態にならないので、前回の「日本の経済衰退と社会関係資本の枯渇」に関連する話題をいくつかの記事で短く取り上げたい。
私はこれまで短絡的な自己責任論を度々批判してきた。
その理由は様々あるが、「問題が起きたのたら自分で何とかしろ」と背景などの分析を無視し(突っ込みをするだけの実質思考停止)、結果として問題を放置・悪化させてしまう(つまり最終的には社会≒自分たちに跳ね返ってくる)というプラクティカルなものの他に、こういったマインドが、外れたものを許さないという傾向を作り出し、人々が既存のシステムにしがみつく要因となっている(つまりイノベーションを阻害している)、と考えるからだ。
誤解のないように言っておくが、「自分に問題が起こらないように誰かが全てお膳立てしてくれるのが当然だ」とか、「生じた問題は全て他責化できる」などという愚にもつかない暴論を言いたいのではない。
生活保護に対するもはや「フォビア」と呼んで差し支えないレベルの言説に象徴されるように、要は他者に対する「包摂」の意識が極めて脆弱であることにより、よほど己に自身や余裕がない限りは、個人の合理的選択は「既存のシステムへの(過剰)適応」となるのは必定なのだ。そしてそのような選択を(自己肯定感が低い)日本人の多くが行う結果、一種の「合成の誤謬」として既得権益への執着と変化への頑強な抵抗が社会の趨勢となり、もって日本は長い停滞を抜け出せなくなっている、と私は考える。
言ってみれば、不安から来る過剰適応と(空気読み、キャラ的人間関係etc)、ノイズ排除(その扱いがしばしばペット以下という意味では人間扱いすらしてない)という傾向が強く結び付いた状況と表現できるが、それはシステムが上手く回っている時はノイズが少なくてよく機能するものの、今日のように変化が必要な場合には、(現状維持という名の)停滞を産み出してしまう、ということになる。
このような傾向の変化は、教育にかかる年数も加味すれば数十年単位で必要であり、その間日本は相対的な衰退を続けることになるだろう(ゆえに変化の希望があるとしたらそれは「加速主義」だ、と宮台は述べているわけだ)、と述べつつこの稿を終えたい。
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この問題については、日本人の無宗教の分析で触れている戦後の伝統共同体の解体(集団就職による出稼ぎなど)、会社共同体による包摂とその変容も見ていく必要があるが、今は紙幅の関係上稿を改めることとしたい。
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