AKIRA・愛しのアイリーン・秋の日は釣瓶落とし:未来予測ではなく、停滞を表す

2020-03-19 12:39:27 | 本関係

コロナパイセンの影響でオリンピア開催が危ぶまれている状況を見て、「AKIRA」の予言が当たったなどと一部で話題になっているようだ。

 

しかし、AKIRAが描かれた時代の状況を知っていれば、そのような観測は歴史的無知に基づくお祭り騒ぎに過ぎないことが理解されるだろう。具体的には「漫画『AKIRA』が新型コロナを予言!?ネット民が震える怖い噂の種明かし」などを読んでいただければよいと思うが、要するにAKIRAの描く世界は未来どころかむしろ昭和の空気を色濃く反映した作品であり、要するにそれが今も当てはまるというのは、AKIRAの未来予測が優れているというよりはむしろ、東京ひいては日本の驚くべき停滞ぶりをこそ表しているのである。

 

これは何もAKIRAに止まらない。そもそも私がこの記事を書こうと思ったのは、以前紹介した「愛しのアイリーン」「秋の日は釣瓶落とし」で同様の話をしたことがあるからだ。

 

前者で描かれるのは、東南アジア=遅れた地域から金を払って嫁を娶るというコロニアリズム的な世界理解(念のため言っておくが、これは作品批判ではない)であり、これは技能実習制度を見ればわかるように今の日本でも続く世界観・システムである。これは、同様に本作の柱をなす行き場のない地方の停滞についても当てはまる。

 

「愛しのアイリーン」は1995年に描かれた作品だが(実写映画化は2018年)、我々の多くは20年以上も変わらぬ東南アジア観と(ある意味最もタチが悪い)「悪意なきコロニアリズム」を引きずっているわけで、これは別の視点で見ると、未だに脱亜入欧的発想や「ジャパンアズナンバーワン」時代の幻想を無意識化に植え付けられていることと無関係ではないように思われる(私は2001年と2017年にタイに行ったが、その変貌ぶりに大変驚くと同時に、自分の不見識を恥じたものだ)。

 

後者の「秋の日は釣瓶落とし」で描かれるのは、過労死・シングルマザー・LGBT・老人介護といったテーマだ。これらを聞くと昨日書いたと言っても通用しそうなものだが、この作品の発表は1992年である。つまりは「愛しのアイリーン」と同じで、こういった話が20年以上経っても色褪せないどころか、ほとんど同じように通用してしまうというのは、日本の停滞ぶりを見事に象徴していると言えよう。要するに、岡崎京子は当時すでに断片として浮かび上がっていた問題系を取り上げたが、それは時代を経てようやく明るみに出て多くの人が認知するようになったものであるがために、あたかも昨日・今日書いたものであるように見える、ということだ。

 

以上要するに、AKIRAも愛しのアイリーンも秋の日は釣瓶落としも、一見すると今日的状況を見事に象徴した未来予測の作品に見えるが、実際には私たちの社会がそれだけ変化することができずに停滞していたことをこそ象徴しているのである(ついでに言えば、そういった歴史を忘却し、あたかも新しいものであるかのように妄想するという傾向も見て取れる。ちなみに私が今の「保守」や「保守化」なるものに何も期待しないのは、痛みも伴う歴史を知ろうともしない「保守」に何らの価値もないからである)。

 

「三丁目の夕日」的な欺瞞に浸っている暇があったら、当時の社会の実態を知り、もって現在を考える機会にしたらどうかと思う次第である。


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