1:日本は多神教だから特定宗教に帰属意識を持たない」
2:戦後日本人が無宗教に傾斜していったのは、アメリカ的物質至上主義が原因だ」
日本人の宗教(意識)についてこんな主張が出てきたなら、明確に反論が可能だ。
前者なら、例えばインドのヒンドゥー教を挙げることができる。多神教を信仰している=特定宗教に帰属意識を持たないなら、例えばヒンドゥー教徒もまたそうでなければ、テーゼとして成り立たないからだ。ここで「特定宗教」という点から、複数宗教の混淆つまり「シンクレティズム」を軸に1を再度主張する向きがあるかもしれないが、これについてもタイの仏教&サイヤサート信仰、韓国の仏教と民間信仰の融合、カンボジアにおける仏教とヒンドゥー教の融合など、反証に暇がない(ちなみに現代韓国と言えばキリスト教ではないかと思われるかもしれないが、これは地域性の問題であり、かつて新羅のあった東南部の慶尚道は仏教徒の割合が多く、一方百済のあった西南部の全羅道はキリスト教の割合が多くなっていたりする)。総じて言えば、1のような見方は欧米というキリスト教一神教の価値観から日本を照射した、極めて偏った自己像に過ぎないと評価でき、アジアに比較の目を向けたならば、たちどころにその像の歪曲が露わになるのである。
そして後者なら、仮にそれが原因であるとしたら、「なぜ出所である肝心のアメリカでは今も宗教が盛んなのか?」という反論が真っ先に出てくる(もちろんこれも地域性があって沿岸部と内陸部は異なるわけだが、少なくとも福音派だのバイブルベルトだのを想起すれば、アメリカを日本の宗教状況と同一視できないことは自明である)。これに対し、「いやアメリカが仮に宗教がかった国であろうとも、日本人の宗教意識にアメリカ的物質至上主義は影響を与えたのだ」といった具合に強弁する向きに対しては、「両者を分かつに到った社会的背景をこそ分析すべきであって、アメリカ的物質至上主義だけに着目してもこれ以上何も理解が進まない」という反論ができるだろう(ただの難癖にならないために一応付言しておくと、例えばロバート・ベラーの「市民宗教」といった説などを取り上げることができる)。
以上述べた2つの事例は、日本人になぜ無宗教が多いのかを説明する時によく出てくる俗論だが、容易に反証可能な説がまかり通っているのは、要するに比較検証をすることなく、単なる思い付きをそのまま結論にしてしまっているからだろう。
ちなみに宗教以外で似たようなステレオタイプのパターンを紹介しておくと、「日本人が自己主張をしないのは、日本語における主語の省略が深く関係している」といった見解を挙げることができる。これは欧米との差異という観点ではそれなりに説得力があると思われるかもしれないが、アジアに目を向ければ、「朝鮮語は日本語同様に主語を省略するが、その話者たる朝鮮半島の人々は自己の意見をしっかりと主張する人が多い」という反証により、いとも簡単に瓦解する(『朝鮮語のすすめ:日本語からの視点』)。
以上要するに、日本人と宗教、あるいは日本人の無宗教に関する言説は、極めて浅薄な思い付きの産物が巷間垂れ流され、「識者」とされる人間でさえ同様の場合も少なくないわけだが、今回紹介する『日本人無宗教説』を読むと、そういった言説が明治以降に手を変え品を変え繰り返されてきたことがつぶさに例示されている(なお、「識者」とされる人間たちは、高踏的・衒学的な言葉を用いながら、一般大衆とは遊離した観念をあたかも一般的なもののように提示する傾向がしばしば見られる点には注意が必要である。私が割と最近「九段の母」や「帰って来たヨッパライ」など、いわゆるポップカルチャーを通して宗教意識の分析などを行うようになった理由の一つもそれだ)。
まずは、こういった様々な歴史的事例に触れることで、その相対化・客体化ができるのが本書の有用な点の一つだろう。人間自分が思いついたものの問題点は認知しづらいが、それらが多量に提示され問題点も分析・分類されれば、それなりには免疫化されるものだからである。
さて、本書における「日本人無宗教説」の分類は、大きく分けると宗教不在つまり「欠落説」と、独自の信仰形態があるという「独自宗教説」に分けられる。詳細は本書をぜひ読んでいただきたいが、読んでいて非常に興味深かったのは、このような言わば「自己否定と自己肯定の振り子構造」が、前に紹介した「神国思想とその変遷」と極めて類似するものだった点だ。
そこで述べたのは、仏教の本場たるインドの辺境(お辺土)としての日本、あるいは中華世界の辺境(東夷)としての日本という意識があり、これは言わば「理想郷・理想世界」から離れた否定的な自己像である。しかし後には、自らの独自性を「神国」として誇示する立場が登場してくることになる(有名なのは本地垂迹説から反本地垂迹説への変化だが、近世における国学などもその例として挙げることができる)。
そしてこのような両極の間を揺れ動く構造が、近代化においては「モデルとすべき欧米との差異=欠落説」となり、「それへの反発・反論=独自宗教説」として現出することとなる。要するに、近代以降の日本人無宗教説というものは、前近代にモデルだった東洋が西洋へとモデルチェンジしただけで、「モデルに遠い自己の(極端な)否定」と、「その後に来る独自性の主張を通じた(極端な)自己肯定」という構造は変わっていない、ということである(これは前者を「出羽守」、後者を「日本スゲー論」に比定できるように、色々な枠組みへと応用ができそうだ)。
そしてこのように理解すれば、明治以降の言説を収録した本書において、オリエント研究会の発足における座談会のようなごくごくわずかの例外を除き、「東洋の中の日本」という意識が完全に欠落しているのは、(前近代には欧米をモデルとした自己理解がなかったように)ある意味で当然のことと言える。
そのような視点をこのブログでは「脱亜入欧的オリエンタリズム」という言葉で表現してきたわけだが、つまりは欧米をモデルとして自己否定をしながら、しばしば自己の独自性を語る(誇る)ような態度も並行して存在すること、そしてそこではアジアという自らに近しい環境については全くと言っていいほど顧みられないという特徴が観察される。
その問題点を明らかにするためやや強めの言い方をするなら、そこには「アジアを自らの対等な立場の存在として比較対象にする意識」が欠落している。この点に留意すれば、以前紹介したタゴール来日の際に見られた抜きがたい「上から目線」の正体が理解できるし、またそういう立場から惹起する「亜細亜主義」なるものが、そもそも限界を抱えていたのも極めて必然的なものだったのだと言えるのではないか(もちろん、それが大東亜共栄圏など対外拡大のために政治利用されなければ、もう少し実態としてまともでありえたかもしれないが)。
閑話休題。
以上述べたように、前近代の意識も併せて日本人無宗教説を考えると、欠落説・独自宗教説のいずれかに注目するのではなく、その二つの間を揺れ動く、言わば振り子のような構造自体に着目することが重要と言えるだろう。これは例えば、アメリカ合衆国の政策を考える際、共和党・民主党いずれかのみに注目するのは不適切で、どちらが政権を担当するかで外交も内政もスイングする(例えばオバマとトランプを対比してみるとよい)というダイナミズムと不安定さに注目することが必要であるのと似ている。
そのような構造の客体化を読者に促してくれる点において、本書は日本人の宗教意識や日本人論を考える上で、いわば基礎的な文献となるであろうと述べておきたい。
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