先週の土曜日に友達が泊まりに来たと書いたが、その中で広中平祐の本を知ったのは大きな収穫だった。少し前に数学の例を使って共感について論じたこともあり、偶然にしては出来すぎだな、と思ったくらいだ(※)。賛成できなかったり違和感を覚えたりする部分もあるにせよ、彼の見解は色々と参考になるところが多く、前回の記事でさっそく引用させてもらった次第である。
そこからもわかる通り、最近では共感という問題を常に意識しながら本を選択し、読んでいる自分がいる。そういう時期も必要ではあるけど、少しばかり偏りすぎな気がしてならない。しばらくは問題を寝かせておくのがいいんじゃないかな…
この前廃墟の記事を書いたのは、そういう意識に基づいていた。共感とあまり関連しない(と今のところ感じられる)話題をそろそろ書かないと、頭が硬直しそうな気がしたのだ。まあそういう強引な意図で書いたため、かなり不完全で違和感ばりばりの内容になってしまったが、その違和感からかえって廃墟や路地裏に関する考察を深めることができた。今度は、それについて書きたいと思う。
※
それにしても、友達が『生きること 学ぶこと』を小学校だか中学校ですでに読み、塾の先生にも貸してたっていうのは驚いた。こういうところで、読書のレベルと量の違いを痛感させられる。
そこからもわかる通り、最近では共感という問題を常に意識しながら本を選択し、読んでいる自分がいる。そういう時期も必要ではあるけど、少しばかり偏りすぎな気がしてならない。しばらくは問題を寝かせておくのがいいんじゃないかな…
この前廃墟の記事を書いたのは、そういう意識に基づいていた。共感とあまり関連しない(と今のところ感じられる)話題をそろそろ書かないと、頭が硬直しそうな気がしたのだ。まあそういう強引な意図で書いたため、かなり不完全で違和感ばりばりの内容になってしまったが、その違和感からかえって廃墟や路地裏に関する考察を深めることができた。今度は、それについて書きたいと思う。
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それにしても、友達が『生きること 学ぶこと』を小学校だか中学校ですでに読み、塾の先生にも貸してたっていうのは驚いた。こういうところで、読書のレベルと量の違いを痛感させられる。
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