深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ(フリードリヒ=ニーチェ)
喩えるなら真実の愛とは、幽霊のようなものである。誰もがその噂をするが、その実体を見た者はほとんどいない(ラ=ロシェフコー)
人工知能が発達していった先にどんな存在が生まれるか、そしてどんな社会が到来するか・・・というのはよくある話題だが、私はこの記事を見て、「非合理性」をも模倣するのか?、人間にとっての「快」とは何なのか?といった内容から、ふと「沙耶の唄」やグレッグ=イーガンの諸作品を連想した。そしてまた、電極を刺して笑顔にするという部分からは、「恋人見るとドーパミン」という研究の記事を想起し、 「交換可能性」のことを思った。
実際私たちが「人間性」と思っているものの正体が、人工知能や認知科学の発達に伴って暴きだされていくであろう。それが人を救うのか、絶望に叩き込むのかは別にして。
・人類にとって技術とは発展のための手段だと考えられてきたところ、実は全くそうではなくて、技術というものは人類の存在とは無関係なシステムである。
・科学と技術の関係を見ても、人類の叡智の結晶たる科学によって技術が生み出されてきたのではなく、そもそも存在していた「技術」というシステムを人類が合理的に理解するために科学が生まれてきたと考えるべき。
なのだそうだ。(結構前に読んだ本なので、記憶違いがあるかもだが。)
昨今のAIの著しい進歩をみるにつけて、ちょうど今の時代こそが、技術自身が臨界点を超え自己運動を開始した正にそのタイミングなのではないかと感じている。そしてそれは木田先生の慧眼を証明するものだろう。それに気がついたときには時既に遅しなわけだが。
これ以上先に進むともう人類も制御ができない領域に入るわけだから、もう何が起こるかわからんね。それもまた一興。
たとえば物理法則や数学の公式って「真理」そのもののように捉えられがちだけど、結局は単にそういう見方をすれば現象が一定のものとして理解できる(反復可能である)ってことと同じだよね。言い換えれば、「説明可能である」ということと、「真理である」ことはイコールではない。
まあもっとも、「真理」なんか到達不可能なもので道具主義的に役に立てば何でもいいやと工学的・経営学的な知がもてはやされる今日的状況が進展していくと、そういうある種の「謙虚さ」というかこの世界の未規定性に対する敬意のようなものもまた消えていくのだろうけども。
まあさしあたって俺は大して歴史や社会の事も知ろうとしないのに「人間」や「本能」、「人間性」なるものを声高に主張するナイーブな連中が、人間がエッセンシャルと思っていたものが容易に交換可能・追体験可能になることによってどのような反応を示すのか、非常に興味深いところではあるね。
妄想