これは元々フラグメントの中に組み込まれるはずだった記事である。しかし、その最初が以下のように「ダイナマイト in 熊本」と繋がる高校時代の話だったので、それを説明した後で掲載しようと温存していた次第である。ちなみにその後が「ひぐらしのなく頃に」の内容評となっているのは、ともに「閉鎖空間の狂気」の話をしているからである。
【原文】
2010/01/21および2010/02/02
<結城が好~き、死ぬほど好~き>
男子十人、女子三十人。三年間同じクラス。隔離病棟w行動はいつも同じ。流行の曲かテレビ(バラエティ)の話ばかり。話が徹底的に合わない(大学で全く違うことを知り、閉鎖空間の異常を改めて知った)。なぜこいつらに合わせて自分の嗜好を変えなきゃいけないのか納得できない。絡みようがないから孤立化する。死ぬときは教室ごと爆破して巻き添えにする。不可能性がポイント。作り方を調べるところから始まり、それだけの破壊力があるものを作り上げ、いつどうやって…ネットもないし調べようがない。ネットに繋ぐ気もない。安全弁を作り、妄執を吸収。個人に原因はない。集団が。
<老人萎えやすくマラ断ち難し>
俺が強制されるいわれがないように、相手に強制するいわれもない。平行線。自己の二重化。統一的な自己って欺瞞じゃね?…性前説、性悪説の偏り。意識的に取り入れる。ビーズとか。同時平行。先に爆発しちゃった。合志中から来ていた二人組。呼び出して殴り合い。傍から見れば喜劇にしか見えないことが大真面目に行われる。まあ周囲は榊原事件みたいなのが起こらないと気付かない白痴ばかりだからなあ…高校は妥協してこうなった。この高すぎる授業料は大学でチャラにしてやる。ってわけで「大学への情念」。予備校効果。違う軸が追加。
<ひぐらし>
オカルトと人為。結果からの逆算にすぎない。「何でもあり」というブラックホールを避けるための人為(皆編批判)→護持すべき前提になる→教条主義。法則性を見いだす心、裏切りと信頼、逆説は一切信用しない→単なる逃避。なぜかそのような枠組みが問題にされることがない。現行の物語が所与のものとして「しか」見なされないからでは?製作過程について考える。「裏切り」が描かれ続けてきたという前提なしに批判も称賛もできない。崇高なるモノがいかに作られ、利用 されるか→綿流し、目明し。ファシズムの研究。成熟社会の在り方。価値観の多様化→逆行する「信じろ」
<ひぐらし2>
じゃあ逆に聞きたいが「信じる」って何だ?相手が自分と同じ価値観や道徳を持っていることか?それは無理。というか「皆同じ」の弊害が出始めてさえいる。にもかかわらず、信じろか?「共感」でぶった切った風にしかならんわ。必要なのは、判断力やコミュニケーション能力であって、共同性への(強迫的な)信頼ではない。信頼の恣意性、それでもなお…という断念、逆説もなし。あんたはそんな残念な人たちを量産したいのかい?いや、何がしたいんだい?解決を念頭に置いていなかった出題編を解決可能にするための団結というアクロバティック→矛盾。
<ひぐらし3>
北条家への差別を通じて雛見沢の旧弊を描き、二項対立的に団結=善ではないことを示そうとしているのはわかる(憑落し)。しかし、その有効性は疑問。オヤシロさまによる団結。日本的文脈においては、神様の正しい利用法だと言える。ご都合主義、ゼウスインマキーナ。団結の中心が園崎天皇という現人神からモノホンの神に変わっただけ。繰り返す世界という実現不可能な要素が現実との短絡を防ぐ。
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